僕と逃げると、

「なんで追いかけてくんのよぇ」
 舌がもつれた。息が苦しくなって、小刻みに酸素を求める。走ってる最中に叫ぶべきではなかった。そんな後悔をする。
「僕が何をしたっていうんだぁはっ」
 だというのにまた叫んでいた。抗議をしないではいられなかったのだ。けど再び、後悔。
「はあ知りたいかボクッ子娘、はあ」
 その声の主は高らかに笑う。だが挟まれる息継ぎをきくかぎり、余裕であるようには思えない。僕は走る。耳をすませた。
 心拍数が、あがっている。
 ペースを落としたいが、追いつかれたらと思うと心配で、とてもじゃないが調整などしていられない。耳をそばだてたのは声を待つ意味もあった。期待に反して、言葉は落ちてこない。
 きっと僕を待っているのだ。意地が悪い。
「……はぁ、はぁ、教えろ」
「あなたが逃げるからだと言ったらどうする」
「怒る」
「はっはっはげふぉっ。…………人にきく前に、……自分の胸に手を当てて……考えてごらん。追っかけられることにおぼえはないかい」
 僕は考えた。今日体育のドッヂボールで腹黒眼鏡の佐織ちゃんを狙い続けたことだろうか。それとも昨日の掃除当番をさぼったことだろうか。もしかしたら一週間前、夏帆ちゃんのお弁当を誤って蹴飛ばし、台無しにしたことかもしれない。
「違う、そんなしょうもないことじゃない」
 声は言った。
「あんた佐織ちゃんと掃除当番の子と夏帆ちゃんに謝れ!」
 僕は怒鳴った。酸素が消えた。水中奥深くに沈んでしまったかのように感じた。口の中に唾がたまる。粘りけがあって、今すぐにでも吐き出したかったけれど、そうするのは躊躇われた。乙女の恥じらいというやつだった。
「つらいだろ? つらいよね? 嫌ならもう走らなくてもいいんだよ。やめちゃいなよ」
「バカ言わないで、あんたがすぐそこまできてるのはわかってる」
 けれどたしかに、死ぬほどつらかった。安易に死ぬほどと使ってしまうほどにはつらい。止まりたいという思いが一瞬頭をよぎるが、すぐに別の強迫観念にとらわれた。逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。休んでいる暇などないのだ、走り続けなければいけない。
 走るということが、これほどまでに辛いとは知らなかった。よく、ゾーンに入る、とか。ランナーズハイ、とかという言葉をきくけれど、僕には何のことかわからない。四肢がだるかった。頭が痛かった。足の裏がジンジンとしてきて、たまらなくつらい。
 だって、みんなが走れって言ったんだもの。そりゃあ直接「走れ」とは言わなかったかもしれないけれど、僕にとっては同じことだった。「あら、走ってるの、偉いわね。頑張って」だなんて。そんなこと言われたら、走らざるをえない。
 だって、気づいたときには走っていたんだもの。ふと目が覚めたときには同じように必死に走る人たちに囲まれて、身動きがとれなくなった。自分の意志とは無関係に、みんなが走るからという理由で、僕は足を動かしていた。
 だって、怖かったんだもの。走るのをやめた人が、どんな言葉をかけられたかを見てきたから。僕が走る横で立ち止まり、後ろを向いた誰かの前からは、応援する人たちが三々五々散っていった。
 だって、追いかけてくるから。何が追いかけてくるのかはわからなかったけれど、それは未知のものには違いない。走っていればみんなが応援してくれるのだから、立ち止まりよくわからないものを迎えるよりは、走っていた方がましだと思った。たとえつらくてやめたくてこわかったとしても、ひとりぼっちになるよりはいい。
「ひとりぼっちじゃないじゃん」
 声は叫んだ。僕は走った。もう走る理由も忘れて、ただひたすら走って。
「立ち止まったって、みんなにおいてかれたって」
 僕は走った。
 走った。
 走った。
 走った。
「僕がいるよ」
 後ろを、__振り返ってしまった。僕を追いかけていたのは、……僕だった。
 足がすくむ。立ち止まった。一瞬。再び走り出す。走る、走る、走る。
「たとえ君がいくら走り続けようとも、僕は君を追いかけるよ」
「……どうして?」
「だって、僕は君だ。君のそばにいつづけなくちゃ」
「じゃあ……ずっと僕の背中を追いかけるんだね」
  僕は走る。
「でも! 君は走りたくないんだろう? つらいんだ。だったらどうして走るんだよ、止まればいいじゃないか」
 走る。
「わかるんだよ! 僕も君だから。本当は止まりたい。でも、追いかけてくるやつがこわい。だから君は、止まれない」
 走る。
「でも、追いかけてくるやつを受け止めればいいんだよ。抱きしめて、認めてあげればいい」
「……嘘、だよね」
 ハッハッハとリズムよく吐き出される息。言葉を吐くのもリズムに合わせると、苦しさはさほど感じなかった。
「何がだい」
 声は追いかけてくる。言葉とともに、追ってくる。
「あんたが僕のはずない。だって僕は、そんなポジティブじゃない。意志も強くない。自己嫌悪をやめられるほど、人間できてない」
「……僕は君だよ」
「あんたはあんた、僕は僕だ。だから無駄な干渉はよして、お互い走ることに集中しようよ」
「あれ、君は僕に追いかけられていて、だから逃げていたんじゃないの?」
「……ぇ?」
 僕は止まりそうになった足を無理矢理動かして、思考した。けれどうまく頭が回らない。悪態をつく。どうすればいい。
「君は何がしたい」
 声の主と言葉が立ち止まったのを僕は感じた。足音が一つ分になって、とんたんとんたんとんたんたん。
「____立ち止まりたい」
 けど、誰も許してはくれないだろう。いや、僕が僕自身を許せはしない。
 声が笑った。
「僕が許すよ」
 もうすでに立ち止まっていた僕に向かって言うと、声は僕のすぐ後ろに立った。
「どうして僕を追いかけてたんだよ」
「君が逃げるから、だよ」