彼女と愛とスカート


「好きになった」

 薫子の目はとても真剣で、冗談を口にしているようではなかった。すごい、と素直に思う。彼女はいつだって、こうなることができるのだから。

「何を?」

 この一言を言うためだけに、私はここに来たのだと、深く実感した。私がこぼすことのできる、唯一の重さを持った言葉だ。

「人を」

「すごいね」

「ちょっと、人を人でなしみたいに言わないで」

 あざとい。女子大生の鏡が服を着て歩いて、頬をふくらませて上目遣いでこちらをみている。私はうつむく。うつむいたまま左を向いて、誰も乗せなくてもバカみたいに動き続けるエスカレーターをみた。お前も他のやつと同じように止まれ。楽をすることを覚えろ、と心の中だけで叱咤激励。

「今まで好きになったことなかったっしょ?」

 人間のこと。と付け足す。それだけで、まるで薫子が人外かなにかのようにきこえてきて、ちょっとだけ面白い。

 よく考えたら別に面白くないわ……。

「ない」

 彼女の、断定してしまえる愚直さが好き。

「すごいじゃん、薫子も人を好きになれたんだね」

「無理って、思ってた?」

「うん、正直」

「正直だね……」

「だって、花も恥じらう女子高生の時でさえ恋をしなかったんでしょ。無理じゃないかな」

 水曜日の二限は、いつも静かだ。特に、長いエスカレーターを上ってたどりつく、このラウンジのような空間は。ゆったりと離されて置かれた机と椅子。歩いても音の鳴らないカーペット。すべてくすんだ色をしていて、でも天井だけは白くぴかぴかしている。オルガンの音が床をはうようにきこえてくる気もするけれど、違うような気もした。

 高校の頃、バスケの試合が学校であった。他校に使ってもらうために、女バスの私たちが男子更衣室を掃除させられたのを、今でも覚えている。更衣室は、体育の授業がなかったから、しばらく使われていないはずだった。女子たちと違って、男子はみんな部活でも外で着替えるし、「だから掃除っていっても楽だよ」と顧問が言った。けれど更衣室は、泥と汗と、男の臭いが立ちこめていた。いるはずのない男子の姿が目に浮かんで、みんなで顔を覆った。なんだかよくわからないけど、恥ずかしかった。

「高校の頃のこと、思い出してる?」

「うん」

「幼なじみのこと?」

「全然関係ない」

 薫子のすぐ、あいつを話題にする癖はやめてほしいと、時々思う。だって、本当に、たまにだけど、考えてしまうから。

 私たちの大学には礼拝堂があって、この十階以上もある建物の一階と二階の部分がそのスペースにあてられている。

 この空間に残った教会の残り香が、私にオルガンの音を感じさせたのだと思う。あの男子更衣室で起こったのと、同じこと。

「で、どうして好きになったの?」

「誰かはきいてくれないの?」

「興味ない」

「傷つくなあ」

 全然傷ついてない顔して、薫子は私をみた。私たちのすぐ近くを横切って、四階へと行くための、離れたところにあるエスカレーターで上っていく人を待ってから、彼女は口を開く。言葉が落ちてしまわないように、ていねいに口を開く。

「好きになるのに、理由なんている?」

「きっかけはあるでしょ? 明確じゃなくても」

 私は言葉がほしかった。たとえ正しく伝わらなくても、尽くすべきだと思う。わかりあえないっていうのは、自分の心にたまった言葉を全部吐き出して、さらけだしてからようやく、最後にぽつりと、第三者に言ってもらうものではないだろうか。

「うーん」

 きっかけ、ねえ、と一人ごちて。「なんか気づいたときには、好きだった」

「その人と会って一番古い、好きはいつ?」

「出会ったときにはもう好きだった気もするなあ」

「一目惚れ?」

「いや、でも、もはや出会う前から好きだったのかもしれない。その人が好きじゃない頃の自分が思い出せないかも」

「前世からの因縁?」

「だといいけど」

「因縁て」

「うわ、自分突っ込み」

 平坦な薫子の声は、耳に心地いい。髪の毛の先をまとめて、筆みたいにして自分の頬をなでる。そんな彼女に、私は魅入る。

「そんなに好きなの?」

 机の上には、レポート用紙が広げてあるけれど、もうすでに私たちは手をつける気をなくしていた。期限、明日までなんだけど。

「好き。吐き気がするほど好き。痛くて痛くて痛くて仕方ないくらい好き。胸の真ん中の一点にふわふわした綿菓子みたいなのがあって、そこがぐわぁって痛むの。気持ちよくて、幸せで、でもとても苦しくて、吐き出したくなる。ねえ、やばいかな? 私どうにかなっちゃったのかな」

「吐きだせ吐きだせ。あんたの気持ち悪いの、全部私が受け止めて、こっそりとあとで捨てとくよ」

 自分がやばいと思っているうちは、平気な気がした。でも、やばくないよって言って安心させては、やばい気もした。

「でも、多分ひくよ」

「大丈夫、絶対ひくから」

「私、こんな感情初めてだから、怖くてたまらないんだよ。自分が異常かもって思って、でもすっごくわかってもらいたくて、誰にも話せないでいた」

「みんな、異常だよ。誰ひとり正しい人なんていない。心の底からわかりあうことなんて、できやしないし、相手のすべてを理解できるわけじゃない。だからこそ、知ろうとするために、言葉を交わしあわなければいけないんだ。__って、私は、信じてる」

 私は、強い言葉を使ってしまう。その強さは、私自身の強さではない。なのに、我慢できなくなって、理想をかたって。

 私は私の、正しさを信じている。私にとっての、正解の生き方とか、行動とかがあって、それを守れないたびに、自身を軽蔑する。

 でも自分の正しさと同じくらい、他の人の持つ正しさも、信じているのに。

「わかるよ。その顔みてたら、言いたいこと」

「私、何も言ってない……じゃん」

 薫子は、空気を読む。ただ一カ所のではなくて、空間すべての、空気。一緒にいて、こんなに居心地のいいところは他にない。だから、彼女の苦しみを、少しでも軽くしたいと思う。あいつらと違って、私は打算のない行動なんて信じていないから。私は私のために、生きるから。

「どれくらい好きなの」

「何よりも好き」

「そんなに好きなんだ」

「うん、好き。彼が楽しそうにしていると、私も楽しくなるんだ」

「いいじゃん」

「もっと彼に笑ってほしいって、思う」

「うん」

「もっと彼に喜んでほしいって思う」

「そう」

「彼の怒った顔も素敵だなあって、みてる」

「へえ」

「彼の泣いた顔も、みたいって思った。一緒に、泣きたいって」

 私が何かを言うよりも先に、薫子はすぐに口を開く。「一緒に怒りたい。一緒に同じものを食べて、美味しいって思いたい。同じ景色をみて、きれいって、感動したい。同じ音をきいて歩きたい。同じ匂いをかいで眠りたい。ずっと、触れあっていたい」

 彼女の声は震えていて、不安定。私は薫子の口から出てきた音をきいて、きれいだと思った。揺れた言葉が、こんな美しい音を奏でるなんて、嘘みたいだ。

「嫉妬とか、しないの?」

「彼が誰か他の女の子と一緒に笑っているときも、誰かに傷つけられて悲しんでいるときも、私はきっと、愛おしさを感じてしまう」

「愛おしさって、何」

「好き、とは違うのかもしれない」

「好きの先にあるの?」

「かなあ。好きよりもおっきい。愛ってことかな」

「愛、ね」

 愛ときいて、私は私の元幼なじみのあいつのことを、思い出していた。

 中学高校と続いた飽くなき努力の末、ついに意中の子と付き合うことになったけれど、高校最後の卒業遠足の夢の国で別れた。互いに励ましあった受験勉強は成果をあげて、二人とも同じ大学である。学部まで一緒。なんか思い出したら涙が出てきそうになったから、下唇を噛んで必死に耐えた。

「幼なじみのこと考えてた?」

「違うよ」

「うそ」

「私に幼なじみはいません」

「存在ごと消されちゃったよ……」

 私は声を上げて笑った。机がびっくりしたみたいにぷるっと揺れる。蹴ったのか。

 薫子は、少しの幸福を噛みしめるように、慎ましく笑う。その姿がとても、……なんだろう。言葉にしたいのに、とても難しい。むずがゆい。なんだか、夕焼けみたいな感じ。とてもきれいで、まぶしくて、ずっとみていたくなるけれど、終わってしまって、その光に心奪われれば奪われるほど、後にまつ暗闇が虚しく感じるような。

 薫子が机の端と端に触れて、たぶん位置を整えるために、とんとんと叩いた。

「私の好きには、主体であるはずの彼が、抜け落ちているんだ」

 瞳には人の、強さがでる。そう、私は勝手に思ってる。薫子の瞳は、去年出会ったときから、日を重ねるごとに光も重なっていって、輝きを増していて。いつだって、会ったその日の今日が一番眩しかったけれど、今は多分、過去も未来も現在もあわせて、一番きれいだ。

 かげった表情とは裏腹に、その瞳は地平に沈む太陽の一瞬のきらめきみたいに、ぴかぴかしている。

「きもいよね。怖いよね。ひくよね。だって、絶対おかしいもん。純粋さなんてみじんもなくて、私の好きは歪んでいて、きっと恋の終着駅に着いちゃったんだ。もうこれ以上先には、すすめない」

「恋の終着駅」

 ぐいっと顔を歪めて笑みを作ると、薫子は肩を叩いてきた。肩をさすって、私は真剣な表情を作る。「私の元幼なじみも、そういう臭い台詞をへーきで吐くやつなんだけどさあ」

「臭いっていうな。あと、幼なじみはいくらがんばっても“元”にならないわ」

「あいつ、私の親友と別れたんだ」

「許せないの?」

「許せない」

「でも、好きでしょ」

「ううん、好きじゃないよ、あんなやつ」

「ほんとう?」

「男ってさ、くさいじゃん」

「私の好きな人はいい匂いするもん」

「がさつで、横暴だ。気遣いなんてなんもしてくれない」

「優しいよ」

「好きなんだね」

「愛してる」

 最初に会ったころと、本当にずいぶん変わったなあ、と薫子をみて思った。我が子の成長をみる親の心境になって、少しだけ瞳がうるんだ。

「ハンカチ、持ってる?」

「ちょっとまって」

 隣のいすにのせた手提げの中をみはじめた薫子を無視して涙は流れはじめたから、私はあわててスカートのポケットをまさぐって黒猫の描いてあるハンカチをとりだした。頬を伝いはじめていた滴をおおげさにおさえると、「ティッシュしかないや」と彼女は目線をさげたまま言った。

「大丈夫、あった」

「それ私のじゃん! このハンカチどろぼー!」

「ごめんごめん、つい」

「いいわけになってないし……」

「好きな人のハンカチって、ずっと手元におきたくなっちゃうんだよね。わかるっしょ?」

「わかるわかるー、って言うとでも思った?」

「怖いよ、目がガチで怖いよ」

 彼女のドスのきいた低い声は、噂の彼にきかれたら絶対どん引きされるだろうなあと思った。

 私は机の上に散らばった紙をまとめると、透明なクリアファイルにいれる。どこにA4の紙が入るんだよ、と自分でも突っ込みたくなる鞄にそれを入れて、私は身を乗り出して薫子の目をみつめた。

「今の薫子は、始発駅だと思うよ」

「え?」

「だって、私も経験した。そういう気持ち。何にもいらないって、そういう、愛おしい気持ち」

 薫子は、先をカールさせた茶色の髪をもてあそぶのをやめて、私をみた。

「どういうこと?」

「私、みてるだけでいいって思ってた。あいつが幸せなら、それでいいって。私が幸せになりたいんじゃなくて、あいつに幸せになってほしいんだって、思ってた。多分その想いは、本物だった。でも、変わった。あいつと幸せを分け合いたいって思った。私の幸せを半分あいつにあげて、あいつの幸せを半分私がもらう。それができたら、すごくいいなあって思った」

 薫子は、私の言ったことの半分も理解していないようだった。二限の終わりのチャイムが鳴って、ずっと前から残っていて、漂っていた空気が、動き始める音がきこえた。

「あいつは幼なじみじゃなくなった。だって__」

 とろりとした甘い蜜のような囁き。薫子は一つ、身震いをすると、「うそ」とだけ言って目を見開いて私をみた。

 私は鞄を手に、長い長いエスカレーターを駆け下りる。

「待ちなさい! だってあんた、好きじゃないって言った!」

 薫子の叫び声。

「好きじゃないよ」

 __だって、これは愛だもの。

「いずみ、まちなさあい!」

 言葉は私の心の中で軽やかに弾んで、一緒に踊るみたいにスカートがひるがえった。