「山賊の娘ローニャ」の春のさけびにみる命について

山賊の娘ローニャの春のさけびにみる命について

 


文学部英米文学科3年武内洋介

 


作品を一つ選び、その魅力や謎の答えを、引用を踏まえて説得力を持って明らかにする。とりわけ作品の特徴が全体の構造だけでなく、キャラクターや描写など細部にもあることにも注意を払うこと。

 


山賊の娘ローニャは1981年にアストリッド・リンドグレーンによって書かれたスウェーデンの児童文学作品で、大塚勇三訳によって岩波書店から出版された。2014年にポリゴンピクチュアズジブリの協力を得て、宮崎吾朗監督によってアニメ作品としてNHKで放送された本アニメ作品を分析していく。本作品は3DCGアニメーションでキャラクターを動かしながら、背景にはジブリらしい手描きのイラストを置き、2Dと3Dをうまく融合させている。公式ホームページでは山賊の娘ローニャを、「これは一人の少女の成長をとおして描く、家族の物語」としている。だが、本作品の一貫したテーマは家族というよりも、「季節と共に巡るいのち」なのではないかと思う。オープニング曲でもあり、最終話の題名でもある「春のさけび」に焦点をあてて、巡るいのちについて論じていきたい。

 ローニャはかみなりの夜に生まれた、山賊の頭マッティスの一人娘で、髪や笑い方など、父に良く似ている。父や母、山賊たちに見守られて城ですくすくと育ったローニャはある日、父から許可をもらって初めて城の外へと出かける。開く扉。金色の光の先を歩いていくローニャ。呆然とした顔のままゆっくりと、ゆっくりと歩みを進め、吹き付ける風で髪が揺れる。一面すべてが森の景色を見て、わぁあっと声をあげ、走って去っていく。それを見守る山賊たち。森の中にある大きな岩に登り、森全体をみて笑うローニャ。岩から飛び降り、また走り出す。うさぎ、きつね、しかを順番に映し、裸足で走るローニャの足を映す。倒れた大木の上に立ち、高い森の木々を見上げて笑うローニャ。リスを見つけて、走るリスを追いかける。ローニャにとってはすべてが新鮮で、楽しくてたまらない。大きな木一つに、感嘆の息をもらしてしまう。大木に耳を寄せて、水の流れる音をきいて驚いたようにそちらへと向かう。枝を持って陽気に歩くローニャ。大きな岩を登ると、大きな湖が見える。ここから先へは行ってはいけないと言われていたローニャは、湖に向かって松ぼっくりを投げ、足で水をかくことでより遠くへと向かわせる。高い木に登るローニャの頭上を黒い鳥がかすめる。木の上で叫ぶと、鳥たちが一斉に羽ばたく。これは今後春になるたびにローニャがしなければいけないこととして挙げる、春のさけびだ。春のさけびは本作品のオープニング曲でもある。宮崎吾朗監督が作詞し、手嶌葵が歌っている。歌詞の始まりは森の中にいるローニャを思わせる「ちいさな若葉がのびるよに りょうの手 空にさしあげて 大地のかおり すいこめば わたしが緑にそまってく」

これは春の季節というよりは森を表している。次が「わたしの中からあふれだす春のさけびはいのちのさけび」とある。春のさけびがいのちのさけびであること、森の中の春がいのちであることを表現している。歌は続くが、ずっと春について歌っているのではなく、森の中で夏が来て「いのちのひかり」、秋が来て「いのちの吐息」、「いのちをそうっと抱きしめて」春を待つ。そしてこずえをわたる風のように「春のさけび」がやってくる。この曲は森の中でいのちの始まりと終わり、そして再びの始まりを歌っているのだ。森の中はいのちで溢れていて、森に魅入ったローニャは夜空の星をみながら、「世界って広いんだわ」とつぶやく。だが、すぐに灰色小人に襲われ、外の怖さも知ることになる。ローニャにとって城だけだった世界が、森全体になった。楽しさも怖さもすべてがそこにはあった。ローニャは森に行くことによって春のさけびを知り、いのちのさけびを知った。だがこれは始まりに過ぎない。ローニャは実際に森の夏、秋、冬を経験していく。それは城と森という、二つの世界を行き来するものだ。その一年を通して、ライバル山賊の息子、ビルクとの交流を深め、仲良くなっていったローニャは、二度目の森の春を彼と共に経験する。山賊同士の争いに嫌気が差したローニャとビルクは城を飛び出し、二人で森で暮らすことにした。春のさけびをあげたローニャの、春がやってきた。今回の春は城という世界から完全に断絶された、森そのもの。巡るいのちのすべてがある森は幼い二人には魅力的であると同時に、厳しいものでもあった。夏、秋、と巡る内に、いのちの終わる冬を、自分たち二人では越せないことに気付く。この森の中だけで過ごす季節は、家族を語るよりも一つ違う次元で語られている「巡るいのち」の為に、本作品にとって必要不可欠なものだ。ローニャは森を、季節を、いのちを身体で感じなければならなかった。ビルクと共に川に入り、生き物を殺して自らの糧とし、馬に乗り、傷を受け、傷を癒す。生きるというすべてを、いのちというすべてを彼女は受けとめ、乗り越えていった。

 ローニャは森といういのちを愛し、慈しんだ。だが、彼女のこの行為は自己矛盾に満ちている。山賊の娘であるローニャは、生まれたときから自らに矛盾を課せられるのだ。略奪することが生きることであると考える山賊から生まれたにも関わらず、ローニャは与えられることで育った。山賊たちは森から拾ってきたものをローニャに与え、愛を与え、育てる。彼らのアイデンティティとは正反対の行為を、彼らは疑問に思うことなくやる。それは新しく生まれたいのちの為だった。彼女は自身に課せられた矛盾と向き合う為に城を離れ、改めていのちに触れた。山賊の娘として生まれた時から、ローニャが森で暮らすことは決まっていたのだ。彼女は巡るいのちを教えてくれる森で、自分がどのように生きていくのかを決めなければならない。

 ローニャとビルクの手によって山賊同士の争いは終わり、二人とも冬を城で無事に越そうとしていた。だが冬が終わるということはいのちが終わるということ。新しいいのちのさけびの為にも、ローニャには最後の試練が残っていた。スカッレペール、ローニャの祖父のような存在でいた老人。彼はその冬に寿命で息を引きとる。スカッレペールは次第に弱っていく中で、ローニャの父が生まれた日のことを思い出す。巡る命について、思いを馳せるのだ。ローニャの父は号泣をして叫ぶが、ローニャは静かにそれを見ていた。悲しいわけではなかったが、彼女は山賊ではなかった。彼女は春のさけびを知っていた。いのちが巡るもので、また春になれば生まれることを知っていたのだ。死は終わりではなく、冬は永遠には続かない。春になるとローニャは、再び同じ獣道を走り、耳をあてた大木の横を駆け抜け、森で暮らした洞穴に行き、森全体を見ながら春のさけびをあげるのだった。

 この作品は26話を通して、四季を巡り、森を巡り、いのちを巡った。見る私たちに、一人の人間の一生涯を追うことではなく、巡るいのちの最初と最後を見せることで、これから始まるいのち、これから終わるいのち、それらの繋がりを感じさせ、四季と同じようにいのちも一つの輪っかとして巡るのだと教えてくれるのだ。