僕と愛とスカート

 

 アパートの階段の一番下、制服姿のまま僕は腰をおろす。夕焼けの空は夜色と混じり合い、不思議な感じがした。ローファーが地面を蹴る、硬い音。同じ中学の制服をきた泉ちゃんは僕を一瞥して、階段をあがりはじめる。

「ふられた」

 呟いた僕の背中に泉ちゃんはスクールバッグを投げつけた。

「あんた人の親友に何勝手にコクってんのよ」

「どうして沙耶さんに告ったこと知ってるの!?」

 我ながら情けない声だと思う。泉ちゃんは僕の質問には答えず「ハンカチ持ってる?」ときいてきた。僕が首を横にふると、一度上を向く。

「……はぁ」

 彼女はもの憂げにため息を吐いた。スカートのポケットから藍色のハンカチを取り出して、それを敷いて僕の隣に座る。たぶん校則違反であろう少し短めのスカート。お尻からふとももへと持ち上げるように両手をそのスカートにそえた。体育座りだった。少し不機嫌そうに、左頬を膝にくっつけて、僕をみる。柔らかそうな泉ちゃんの黒い髪が、赤い光に照らされた。ブレザー越しに肩から感じる泉ちゃんの体温。鼻の奥がツンとして、胸がきゅうっと痛くなって、右手の握り拳を胸元においた。歯を食いしばる。泣かない。だって泣くのは、かっこわるい。

 泉ちゃんが僕から空へと視線を移したのがわかった。赤くて、白くて、うっすらと青い。朝に見上げるとくっきりとした青色なのに。夜の空は濃くて重たげな、一面の青なのに。この時間帯だけは、一つじゃない。みんな違う、色を見ている。

  僕と泉ちゃんは同じ空を見上げている。けどきっと、僕らの目には同じ空が映っているわけではない。そんな気がした。僕は鼻をすする。泉ちゃんの息を吸って吐く音がきこえる。バイクのけたたましいエンジン音が、大きくなったと思ったらすぐに小さくなって、気がつけばもうきこえなくなった。

「沙耶さんに、今日の放課後、告白したんだ」

「うん」

「泉ちゃんどうして知ってたの。沙耶さんがなんか言ってた?」

「見てればわかる。あんたが沙耶のこと好きなの、ずっと前から知ってたもん」

「え、いつから」

「中一の頃から」泉ちゃんは歯をみせて笑った。「私たちもう中三じゃん? 受験もあるし、告白はしないのかと思ってた。やるじゃん、あんた」

「ありがと」

 僕も彼女のように笑おうとした。うまくできているかは、わからなかった。

 空は夜一色に染まる。消える、泉ちゃんを照らしていた赤い光。彼女の黒い髪は夜色の空気の中。

「でも、ふられたよ」

「なんて言われたのさ」

「ごめんなさいって言って、走っていっちゃった」

「沙耶はそんな子じゃない」

 泉ちゃんの顔は真剣で、僕は思わずすごく近い距離で見つめてしまった。泉ちゃんの変わらないおでこのほくろと、黒の瞳と、変わってしまった僕の呼び方。制服に袖をとおしてから、彼女の声は僕の名前を発さなくなった。

「そんな子って」

「自分の言いたいことを言って、それでことを終わりにしようとする子」

「でも僕は実際にそう言われたんだ。きっと僕のこと、それほどまでに嫌だったんだよ」

 そう、僕は拒絶をされたんだ。何も自分の気持ちを受け止めてほしいとは言わないけれど、はっきりと拒まれたのは思っていた以上に辛く、悲しいことだった。嘘だ。本当は受け止めてほしかった。

「あんたは何て言ったの」

「何か言う暇もなく走ってった」

「違う、告白の台詞よ」

「そんなの言う必要ないでしょ」

「あっそう。じゃあ私帰るね、バイバイ」

「うそうそうそ。言うからっ、待って!」

  立ち上がって階段をあがりはじめた泉ちゃんの左手をつかんで、座ったまましがみつく。

 僕は深く息を吸って、吐いた。生ぬるい、待ち切れずに少し飛び出た夏の匂いがした。

「沙耶さん、あなたのことを愛してます。僕と付き合ってください」

 泉ちゃんは「はぁ?」とでも言いたげな顔をしてみせて持ちかけたスクールバッグを乱暴に地面に落とす。怒っている。かんかんかんと音をさせて階段を下り、腰に手を当てて僕を見下ろした。

「あんた、……大丈夫? 大丈夫じゃないよそれ」

 質問だったのか反語だったのか、はたまた別のなにかか。僕は判然とせず、きっと戸惑いの表情で泉ちゃんを見つめているだろう。

「何がいけなかったのでしょうか」

 平手の一つや二つ飛んできそうなほどの威圧を僕は感じて、逃れようと必死に縮こまった。

「重い」

「は?」

「重い重い重い重い重い重い重い!」

 僕は立ち上がって、耳元で叫ぶ泉ちゃんから逃げる。

「どこが?」

「愛がよ!」

「えぇ」

 そんなバカな、と僕は思いつつ泉ちゃんをみる。泉ちゃんは長いその黒髪を手でくしゃくしゃとして僕を睨んだ。僕は目をそらす。

「アイラブユーは告白の常套句じゃない」

 僕は同意を求める。

「アイラブユーは英語じゃない」

 泉ちゃんも同意を求めてきた。

「だから愛してるって和訳したんじゃない?」

 僕はきいた。

「愛してるは告白の常套句じゃない!」

 でも泉ちゃんに否定された。

 オー、ニホンゴ難シイネー。

「好きよりも本気度が伝わると思ったんだよ」

「伝わりすぎ。そんなこと言われたら誰でもびっくりするに決まってる」

 泉ちゃんは結構疲れていた。

「じゃあ沙耶さんが逃げたのは、僕の告白にビビったから?」

「どん引きよ。よくもまあそんな恥ずかしい台詞を吐いたよね」

「僕……」

  何か言いたかった。言葉にならなかった。悔しいような、悲しいような、ほっとしたような。

 僕は再び階段のところに座った。

「前向きにいきなよ。ふられたわけじゃないってわかったんだから」

 泉ちゃんが笑った。さっきと同じように隣りに座って、僕の背中を優しく叩いた。

「愛ってなんなのかな」

 僕はきく。

「あんた、愛も知らないの?」

「泉ちゃんは知っているの?」

 僕は泉ちゃんをまじまじと見つめた。泉ちゃんは遠くを見ている。空の濃い青は底が見えなくて、きっと泉ちゃんは宇宙の果てまで見通しているのだと僕は思った。

「いや、あんた沙耶に愛してるって言ったんでしょ。愛も知らないのにそんな無責任なことを言ったわけ?」

「好きの上位版みたいなものだと思ってた。アイラブユーは大好きって訳されることも多いから」

「うん」

「……でも、泉ちゃんは重いって言った。僕は愛を理解しているつもりだったけれど、泉ちゃんと僕の間でさえ、愛の認識はずれている」

「そうだね」

「そう思ったら、愛が何なのかわからなくなったんだ」僕は少なからず混乱をしていた。「愛って、なんなんだ」

 だから視界がぼやけて、手の甲に雨が落ちても気にしなかった。ずっとそこにあったかのような泉ちゃんの体温を肩越しに感じて、雨は強くなった。僕にしかみえない、雨。

「雨が降ってきたね」

「は? 雨なんて降ってないし」

「……雨が」

「あんた、そういうクサいことばっか言ってるから引かれるんだよ?」

「……」

 雨はいっそう激しくなった。

 傷つくことを僕はおそれている。傷つけることを僕はおそれている。だから彼女が、羨ましかった。

 傷をおそれる僕は言葉をおそれる。自然と僕は言葉足らずになってしまう。泉ちゃんはでも、おそれない。言葉を尽くして、それでも前に進もうとする力強さを持っていた。

「私は、愛は愛なんだと思う。他の言葉に置き換えられないからこそ愛という言葉が生まれたんじゃないかな。だからわざわざ言葉を探さなくてもいい。……そう、思うよ」

 彼女の言葉は優しかった。

「なんて不完全なんだろう、愛ってのは」僕は言う。「みんな愛がわかっていないのなら、愛という言葉を誰かに贈ることはできないよ」

「……贈らなくていいんじゃない。愛はきっと、するものじゃなくてされるもので、気がつけばそこにあるものなんじゃないかな」

 僕らはしばらく、無言のままでいた。泉ちゃんがいる。見なくてもわかった。僕と彼女の間にある音のない空間は、とても居心地がいい。僕らは幼いころからずっと一緒にいた。隣にいることが当たり前。それは何かを与え合う関係とか、助け合う関係とか、そういったものとはちょっと違う。僕らは何も与えず、ただそこに在るだけ。

「愛だなんて、私たちにはまだ早いよ」泉ちゃんは微笑む。「今度はちゃんと、好きだって言いなよ。愛は、そのずっと先でも構わないんだから」

 きっと、僕も笑っている。なんだかそれは、とても素晴らしいことに思えた。

「泉ちゃん、僕がんばるよ」

 僕は立ち上がる。この空気の色に紛れて、消えてしまわないように。だってきっと、泉ちゃんは夜色の世界にはいない。

「がんばれ」

 泉ちゃんは立ち上がると、ハンカチを取って手でぱんぱんとはたく。

「僕と泉ちゃんの間にあるものが何かわかる?」

 僕はきく。

「わかんない、ハンカチ?」

「やっぱりそれ僕のハンカチだよね? 結構前になくしたと思ったけど泉ちゃん取ったでしょ」

「し、知らない」

 泉ちゃんはあわてて藍色のハンカチをポケットにしまう。

「で、私たちの間には何があるの」

「それは」僕はもったいぶった。「……愛だよ!」

「ごめんなさい」

「あ、泉ちゃん待って逃げないでえええ」

 彼女のスカートがひるがえった。とても軽やかで、僕の重い言葉は届くはずもなかった。