大人はすなおになれないし、子どもはうそがつけない
今日、心の向くままに、会いたいと思った人に会いにいったのだけれど、何しに来たの? ってきかれて、どうでもいい理由を言ってしまった。
すなおになりたい。
すなおになるのって、むつかしい。
ありのままのー、ってむつかしい。
大人はいろんなタテマエが増えてくる。
世界が複雑になって、だからしんどいなあって思うんだと思う。
子どもはシンプルかというと、そうでもない。
世界は大きすぎて、それが苦しかったり楽しかったりするんだと思う。
世の中はだれにとっても、きっと、すなおなんかじゃない。
だから、子どもだからうそがつけないというわけではないし、同じように、大人だからすなおになれないわけではないのかもしれない。
子どもだって、すなおになれないときはある。
でもそもそも、大人ってなんだろう?
ぼくらは大人なのだろうか?
ずっと昔、電車の吊り革に手が届かなかったころ想像していた大人像がある。
大人は頭がよくて、何でも知っていて、Googleで検索するよりも早く、正解を導き出してくれる。
迷うことなく、悔しがることなく、ケンカもしない。
そんな完璧な人のことを、大人と呼ぶのだとぼくは思っていた。
けれど、しばらくすると、そうじゃないことに気づいて、大人も意外と迷うし、失敗するんだなあとわかるようになった。
じゃあ大人ってなんなのだろう。
一人暮らしすれば大人なのか、働き始めれば大人なのか、結婚したら大人なのか。
そんなことはないんだと思う。
大人な人って、きっといないのかもしれない。
ぼくらはまだ、途中だ。
大人じゃないし、子どもでもない。
大人なときもあれば、子どものときもある。
それがすごく、すてきなんだと思う。
もっとすなおになりたいなあ。
会いたい人に会ったときに、会いたかったって、ていねいに伝えられるようになりたいな。
でもやっぱり、すなおってむつかしい。
下心のない「会いたかった」のはずなのだけれど、言い方を間違えてしまうと、「気持ち悪い」になってしまうことがある。
軽くて、軽薄で、薄くなってしまうこともある。
たぶんそれが怖くて、すなおになれないことって、たまにあるんだと思う。
思ってることをぜんぶ、正直に話してしまうことは、ぼくの思う「すなお」とは少しズレている。
前者はとても乱暴で、ザツで、美しくない。
すなおは、もっと優しくて、ていねいで、心を大切に伝えようとすることなのだと、ぼくは思う。
すなおになりたいなあ。
最近、じぶんが、大人ぶってどんどんテンションが平坦になってしまっている気がする。
そのせいで、すなおが減ってしまってるような気がしてしまって、これは問題だなあと思っている。
とりあえず、うれしいとか、楽しいとか、単純で見つけやすい感情から、すなおに伝えていきたい。
優しく、ていねいに、大切に伝える。