人は二人ではわからない話
ぼくはあまり大人数での集まりが好きではない。というと語弊があるかもしれない。
誤解のないように言うと、大人数での集まりが好ましくないのである。嫌いなわけではないし、仲間はずれは嫌だからみんな誘うけれど、より、とうといのは少人数の集まり、特に二人きりのものだと思う。
あなたと私という関係性の中で、その人だけを尊重すればいいから、自然で、居心地がいい。
だからぼくは、サシで会うのが大好きだ。大切な人であればあるほど、二人きりで会いたいなあと思う。
もっともっと、その人のことを知りたいのなら、二人の関係を深掘りしていけばいいのだと、思っていた。二人だけでいれば、たくさんお話ができて、その人の新たな一面もすぐに見つかるのだと。
たぶん、そう思っていた。
けれど最近、人っていうのは、だれかとの関係性の中でしか、性格とか、心を知ることってできないのだろうなあと気づいた。
一対一には、主観しかないのだ。じぶんとあなたという関係の中では、その人を本当に理解することはできない。
あなたとだれかの関係性を、外から見ること。その客観視が、「あなた」をより知ることに繋がるのではないだろうか。
いくらきれいな言葉を並べたてても、理想を語っても。
実際にできている人はどれくらいいるのだろう。
ぼくは、じぶんのことを知りたいのかもしれない。実際はじぶんがどんなやつなのかを知りたいから、人と会っているのかも。
一人では本当の意味でじぶんを知ることができないから。
えな(仮名)にそう言うと、彼女は真面目な顔をして、
じぶん勝手だね、
と、そう言った。
「そうだよ、おれはじぶん勝手」
と言うと、
ひらきなおんな、
と怒られた。
二人きりはとてもすてきだし、やっぱり一番好きなのだけれど、その私とあなたの、あなたがどういう人なのかは結局、ほかの人との関わりの中で、
「子ども嫌いとか言ってたけど、じつはすごい優しい声で、目線の高さを合わせて話してるのね」
とか、
「人見知りですって言ってたけど、すごい話しかけるし気を遣えるんだなあ」
とか、
人とどう関わるか、という部分でもとても見えてくるのだろう。
結局、赤の他人に対してひどくなれる人の、その性格を、ぼくは好きになれない。
きっと赤の他人にひどいことをする人は、大切な人が大切でなくなったら、ひどくなれてしまう。
だからそれが後輩だろうが姉だろうが親友だろうがなんだろうが、ぼくはきちんと優しくありたいなあと思う。
たとえ姉に、遠くにあるリモコンをとって持ってきて、テーブルにあるコーヒーをレンジで温めて、ベッドで寝ている私に持ってきてと言われても、ぼくは嫌な顔一つせずに持っていく。
さすがに眉はあげてしまったけれど。