人のためという言葉を批判する話

「自分と同じように愛することは、その相手のために考え抜いて行動することです」

 

あなたのことが好きだからあえて言うけど、これはやめた方がいいよ。

とか。

お前のためを思って言っているんだ。

とか。

 

親心とか、親切心とか。

見返りを求めないことの美しさとか。

 

ぼくはあまり、そういうものが、好きではない。

 

「だれか」のためという言葉に、価値を感じられないでいる。

それもきっと、ぼくの価値観でしかないけれど。

お付き合いいただけたら、うれしいです。

 

 

 

好きって、ぼくはエゴの塊だと思っている。

じぶんの感情の押しつけでしかない。

その人が好き。たしかに、とてもすてきだ。

ぼくは周りの友だちや家族(のような存在)にとても恵まれていて、大好きな人がたっくさんいるし、好きという感情はとても、とうとい。そう思っている。

けれど、好きは同時に、とてもこわいものだなあと感じている。

好きは、期待することと似ている。

 

ぼくは母親が好きだ。

ぼくが家に帰ったとして、もし母がご飯を作ってくれなかったら、とても心配になる。

具合が悪いのかな?

最近家事をサボってたから怒ってるのかな?

仕事でイヤなことあったのかな?

とか、いろいろ考えて、ぼくに助けられることはないかを考える。

 

けれど、もし母が、特に理由もなく、健康で、順調で、明るいのに、にも関わらずぼくにご飯を作らないと言うのなら、驚くだろう。

不安になるに違いない。

急にぽっかりと、心に穴があいた気分になる。

 

でも、本来、人がぼくにご飯を作る義理なんてないし、じぶんで作らないなんて人生をなめているとしか思えない。

「母」を「友だち」に置き換えたら、とたんに意味がわからなくなる。

 

「ぼくが家に帰ったとして、もし友だちがご飯を作ってくれなかったら、とても心配になる」

 

もはやこわい。どんな友だちだよ。

ご飯作る友だちって、レンタルフレンドかよ。お金払ってるのかな。

とか思うはずだ。

 

ぼくは母が好きだ。

そしてぼくは、母もぼくのことを少なからず好いてくれていると考える。

家にも帰らず、連絡もとらず、一緒に生活をしているのに家事を何もしないのだとしたらまだしも、もし健全に一緒に暮らしているのであれば、ぼくは母に、頼んだときに料理を作ってもらうことを期待してしまう。

それって、好きだからなのではないかと思う。

じぶん自身にとって母はどうでもいい人じゃないから、ぼくにたいしてもどうでもよく接してこないだろうと考えてしまう。

だから一方的な好きって、また別の言葉が必要なはずなんだと思う。

アイドルやモノに対する「好き」と、目の前にいる人への「好き」って、違う。

 

人への好きを、「愛」と呼ぶのかもしれない。

けれどぼくは、愛を無償のものとは思わない。

 

人のために何かをしようとするとき、ぼくらは何かしらを求めてしまう。

プレゼントをあげれば「ありがとう」の言葉や、喜ぶ顔、

アドバイスをすれば、それに従ってよい方向にいって、その人がより幸せになることを。

なんらかしらを、結局求める。

 

不幸になってほしいからやっていることではないからこそ、タチが悪いとぼくは思う。

人は基本的に、悪いと思うことを選択しない。今ある選択肢の中で、一番よいと思われるものを選んでいる。あとから悔やんだり、失敗したと思ったりすることはあっても、選んだその瞬間は(たとえ悪口であったとしても、その瞬間は言おうとして言っているのだから)、じぶんにとって最良の選択をしている。

 

結局人は好きな人に対して求めてしまう。

どうでもいい人に誕生日を祝われなくても何も思わないけれど、じぶんがこの世で一番好きな人に祝われなかったら、やっぱりどうしたってがっかりするのだ。

 

自らが、じぶんにとって一番と思える選択を、じぶん自身でしている。決定権はいつだってじぶんの中にある。

だから、ぼくは人のためという言葉を批判的にとらえてしまっている。

だって、それってじぶんのためでしょ? って思ってしまうから。

じぶんが選んで、実行して、もしその人が期待したものを返してくれなかったら、怒る。常識がないとか、ありえないとか、自己中心的だと責める。

それって、あまりにもじぶん勝手ではないだろうか。

 

だからぼくは、じぶんのためにしか生きていない。

 

じぶんがじぶんのために、その人のためになるようなことがしたい。誰かの心が、少しでも軽くなって、幸せになって、笑ってくれたらなあと思う。

ぜんぶぜんぶ、じぶんのため。

 

だから、ぼくは、誰かのためを思えないこととか、嫉妬してしまうこととか、期待してしまうこととか、そんな感情はとてもすてきなのではないかと思っている。

そんなの、好きなら当たり前だ。

誕生日の月に友だちにご飯に誘われたら、もしかしたら誕生日お祝いしてくれるのかなあ、って勝手に思って、でも実際は何もなくて、ちょっとがっかりして、そんなじぶんもなんだか情けなくて。

いいじゃない。期待しても。

期待してしまうじぶんを、否定する必要なんてないでしょ。

 

その期待を、押しつけなければいいだけだ。

生まれてしまった感情を、すなおに伝える。

だって好きなんだから、好きなら好きなほど、期待してしまう。

 

伝わらなければしかたない。ていねいにていねいに伝えたとしても、伝わらないのであれば、その好きは一方的でしかない。

諦める必要はない。感情を、出すのではなく、言葉で、すなおに伝える。

それでもだめで、もう言う気も失せたら、二人の間に愛はもうないのだと、ぼくは思う。

もう、ただの、アイドルやモノに対する「好き」になってしまっている。

 

そんな「好き」を、

執着と、ぼくは呼んでいる。