丁寧な暮らしはうさんくらいらしいけどぼくはそう思わない話

 

丁寧な暮らし とグーグル検索すると、予測のところに

「丁寧な暮らし うさんくさい」

「丁寧な暮らし うざい」

「丁寧な暮らし 疲れた」

とかが出てきて、ぼくは悪いことをしているところを見られた子どもみたいにどきりとした。

 

丁寧な暮らしって、すてきなものだと思っていた。

それは自分の中で、一つ一つの行為に意味を持たせることだと思っていたから。

 

起きること。

丁寧に起きる。

あさ5時でも、7時でも、12時だっていい。

その時間に起きるということに、自分の中で意味づけをして、価値を与える。

あぁ、丁寧だなと思う。

 

自分にとって大事なことを大事にする。

大切にしたいことを、曲げないだけの理由を持つ。

頑固だっていいし、人には理解されないかもしれないし、ともすればめんどくさいと思われて離れてしまう友だちもいるかもしれないけれど、そこにしゃべり切ることのできるほどの理由がある。

 

儀式めいた習慣づけを、ていねいと呼ぶのだと、そう思っていた。

 

ぼくにそんな丁寧な暮らしができるのかと言われれば、はなはだ疑問だった。

怠惰だから。

部屋の整理もできないし。

心の整理もできたことはない。

 

唯一ていねいだったなと自分に対して思えるのは、このブログを書き続けていた時だけで、今となってはそのていねいさも消えてしまっていた。

 

ぼくは早起きがしたいと、小学生の頃からずっと思い続けている。

睡眠は罪だと、ずぅっと感じていた。

お昼過ぎまで寝てしまった後に覚える罪悪感に押しつぶされそうになりながら、ぼうっとした頭で「今日も何もできなかった」

と思ってしまっていた。

いつからか、睡眠に対する罪悪感は消えて、たくさん眠ってしまった時も、仕方ない、疲れてたんだから。いつも頑張ってるもんな、とか勝手に意味を与えて、自分の中で惰眠に価値を与えるようになった。

息苦しさが和らぐ。

 

結果は変えられないのだから。

一番健全なのは、丁寧に行動することではなくて、丁寧に想うこと。

 

そう思うようになったのだけれど、相変わらず早起きはしたいと思い続けている。

けれどできない。

だから早く起きられる人ってすごいなあと思う。

でも何でぼくが早起きできないかなんて、わかりきっているんだ。

 

意味をまだ見つけられてない。

価値をまだ知らない。

ただ漠然と、ずっと寝てるのはもったいないし、朝起きたら時間いっぱいあって良さそう。って思ってるだけ。

 

結局ぼくが怒ってしまうのも、泣いてしまうのも、悲しくなってしまうのも、おんなじで、怒らずに泣かずに悲しくならない意味を見つけられずにいるから。

きっとぼくにはまだ、丁寧さが足りない。

 

ぼくが人へ投げかける「好き」の言葉も、「かわいい」の言葉も、「ありがとう」の言葉だって、まだまだ意味は薄くて、価値なんてちょっぴりすらないのかもしれない。

だからやっぱり、丁寧な暮らしがしたいなあと思う。

その丁寧さは自分の心の中にある、一つ一つの積み重ねで、意味であり、価値。

晴れた日の凪いだ海の、広くて深くて、落ち着いていて、優しくて、ゆっくりで、穏やかに光る、そんな薄い青色みたいな丁寧さ。

 

毎日をもっともっと。

丁寧にできるかな。

丁寧にしたいなあ。