心の仮面

 自分を考察すること、とは。

 

自分とはいったい何者であるのかを考えること。どんな性格の、どんな人間で、何に価値を置くのか。そういったことを考えることなのだろう。

 

自己理解ワークブックの最初のページ、はじめに、にも書いてあるように私も、向き合う他者によってころころと変わってしまう私の気持ち、言葉遣い、ふるまい、にこれまで何度も悩んで考えてきた。まるでたくさんの仮面を、会う人、会う集団によってつけかえているような気持ちになっていた。

それは今も同じだ。

ある人の前では自信家の仮面をつけ、ある人の前では卑屈な小者の仮面をつける。家族の前でしかつけない仮面があれば、深い友人にしか見せない仮面もある。

仮面をつけかえても変わらない思い。それこそが、私の本質、自分の正体なのではないか、という仮定のもと、仮面を一つのキーワードとして、講義内容を踏まえて「自分」について考察したいと思う。

 

私にとって家族の前でつける仮面というのは、最初は素肌にぴったりとくっついているものだった。

私にとってその仮面は、仮面ではなかった。

ずっと昔からついていたもので、一生そこにあるものだと思っていた。

 

けれどある日、顔にひっついていたものはカタリと音をたててはずれ、ようやく私は仮面をつけていたのだと知る。もしかしたら今の今まで私そのものだったはずのものが、その瞬間に仮面になったのかもしれない。

だが今はもう同じことだ。

この、家族に見せていた顔が仮面になった瞬間というのが、精神的自立の一つ、心理的離乳なのだろう。親子関係の発達の第一段階である個性化、両親から分離した自己を意識することで、無防備にさらされていた素顔は消え、家族以外の人と接するときにしていたように、仮面をつけて役割を全うしようとする。

兄弟のいることは、この仮面をより早い時期に意識することに繋がると思う。

お兄ちゃんなのだから、という親からの役割の押しつけは、自分は自分でありながら、自分以外の兄という仮面を無理やりつけさせられることから始まるからだ。

私も兄姉がいるため、自身の素顔、仮面の形成ともに影響を受けたことだろう。また、親との関係において、私の父は厳格で、また会って話をする機会もあまりなく、ほめられた経験が少ないため、自己と分離した存在であるという意識から、早期に父に対する仮面をこしらえることになった。

この仮面作りを早くにおぼえたことが、自分の所属する団体、立場によって変わる仮面をより意識することに繋がったように思う。

ひいては自己とは何なのか、他者とは何なのかという思考を日々巡らせる要因となった。

私の友人関係のパターンは内面的友人関係を取るタイプであったが、互いの内面を開示する深い関わりを求めるのは、仮面に対する疑問を強くもっているからだ。


 私はよく尊敬する人や好ましいと思った人の癖や言動、行動を真似てしまうことがある。真似るたびにその人の顔を思い浮かべるくらいには意識してやっていることではあるが、こういった行動、性格も友人関係のパターンで説明ができる。

内面的友人関係を取るタイプは、親友像をモデルとした理想自己像の形成をするという。

つまり仲良くしたい理想の人間のイメージをもとに、自身もそうなりたいと願うのだ。おそらく自分の中での理想の人間、この場合私は多くの人を真似るのできっと、一部分が理想的な人間、を真似することによって、防衛機制の一種である取り入れを実行しているのである。
 

自分の性格について考える際、幼少期の経験を踏まえないことはできないだろう。

自己開示に積極的で他人とも話すのが好き、あまり仲がよくなくても構わず話しかけ、挨拶をする。

私は人がとても好きだ。

無視をされたり悪口を言ったりする人には無論好意は持ちようがないが、少なくとも会話をしてくれる人はどんな人でもだいたい好きである。

私のアタッチメントスタイルは安定型、自己モデル他者モデルともに肯定的であった。

自分は愛されるに値する存在である、他者は助けてくれる存在である、という意識は私の中に大きく根ざしている。

この意識は私が幼少の頃から母に愛されて育ったことと、それと同じくらい見知らぬ他者から助けられたという経験をもとに生まれたのだろう。

雨に降られ自転車でずぶ濡れになっていたとき、オフィスビルで雨宿りをしていた私にタオルと乾いたシャツ、温かい飲み物までくれた管理人のおじさんや、ノロウィルスにかかり道端で吐き、倒れていた私を助けてくれた通行人と知らない大学のベッドに運んでくれたおばさんなど、私は他者から助けられた経験を豊富に有している。

こういった経験こそが私のアタッチメントスタイルを、そして自己を作っていったのだろう。