断定する意味がわからない話

まあぼくも断定するけれど。

 

こうである、とか、こうでなければならない、とか、こうしなければいけないんだ、って、よくわからない。

たしかにぼくの中では、決まった答えというものがあるときはあるけれど、それを声高に叫んで、主張する必要性はどこにあるのだろうか。

まあぼくもよく断定的になって、押し付けてしまうことはあるから、自らが一番気をつけなければいけないことではあるのだけれど。

 

ただ、断言できるだけの強さを持つ人が、ぼくはよくわからない。

変わらない保証があるのだろうか。本当に今、そうである、と決めつけるだけの判断材料があって、覚悟があって、その上で決めつけているのだろうか。

この人と一緒にいると絶対幸せになれない、とか、それは間違っている、とか。

 

一度、同じ部活の女の子に、じぶんの親友が車にひかれて死ぬかもしれない場面で、自身の身体を投げ打ってまでその親友を助けるかどうか、という質問をされたとき、

「助けないかもしれない。それはわからない」

と答えた。

そうしたらその子は、武内は人でなしだ、と言って、冷たい目でぼくをみた。

 

ぼくは不思議でならなかった。

助けたい気持ちはある。ただ、じぶんを、しかも一つしかない命を犠牲にしてまで救わなければ、親友とは呼べないのだろうか。その親友は、自身のせいで死んだぼくのことを思って、死ぬまで苦しみ続けるかもしれない。そうしたら、その行為は傲慢で、自己満足で、エゴ以外の何ものでもない。

さらに言えば、というか本質的なことを言うと、じぶんがどんな行動をするかはその時になってみないとわからない。

ぼくはぼくの強さを信じていないし、律しなければすぐに楽な方へ、楽な方へと流れてしまうことを、身にしみて知っている。

だから、もしじぶんの親友が、大切な人が死ぬかもしれないとなったとき、もしかしたらその人をすくうために身体が勝手に動くかもしれないし、それと同時に、助けたい気持ちよりも死への恐怖が勝って、何もできずに目の前で立ち尽くしているかもしれない。

 

どうじぶんが行動するかなんてことは、誰にもわからない。

だから、じぶんに期待をしすぎない方がいいのではないかなあと思う。

じぶんに期待して期待して、もっと成果をあげられるはずなのに、もっと人の気持ちを考えられるはずなのに、もっと人の為を思えるはずなのに、もっと大切な人を大切にできるはずなのに、と。

期待したことができないじぶん自身に嫌悪して、嫌いになって、落ち込んでしまうのは、なんだか意味のない行為だなあとぼくは思う。

もっと、じぶんの弱さを認めて、受け入れて、そんなどうしようもなく人間らしいじぶん自身を、愛せばいいのにと、思ってしまう。

 

だからこそ、断定的な人を見ると、(ぼく自身もそうなってしまうときがよくあるのだけれど) 意味がわからないなあと思う。

なんでじぶんのことをそこまで信用できるのだろうか、と疑問を感じる。

なんでそこまでじぶんに対して厳しくあろうとするのかなあと、思う。

 

お前の断定は間違っている。

そうぼくが断定したくなる。