プレゼントはもらいたくない話

家族以外の人からプレゼントをもらう文化、というのがぼくの中ではあまりなくて、高校生のころ、渡されたプレゼントに、戸惑いをおぼえた。

 

受け取ったプレゼントをみて、うわ、なんかくれた、とか思って、ありがとうって言わなきゃ、喜ばなきゃ、みたいなよくわからない使命感にかられて、ぎこちなく笑ったのをおぼえている。

素直に喜ぶ、というのがぼくにとっては難しくて、うれしい気持ちはあるのだけれど、それを外にだして表現することができずにいた。

 

プレゼントをくれる人はみな、笑顔で渡してくる。それがまるで喜びの強要みたいで、高校生のころはちょっとイヤだった。

 

最近まで、結構ぎこちなくプレゼントをもらっていて、なんでじぶんなんかにくれるのだろう、とか、なんでそのチョイスなんだろう、とか思いながら、表面上のありがとうで取り繕っていたように思う。

プレゼントはもらうのもあげるのも疲れて、贈り物の文化なんてなくなればいいとすら少し感じていた。

 

どんなきっかけかは思い出せない。ただ、プレゼントをもらったときではなく、あげたときに、気づいたのだと思う。

プレゼントって、めちゃめちゃすてきだなあ、と。

 

プレゼントのモノは関係ないのかもしれない。いや、もちろん、うれしいけれど。

プレゼントをもらった瞬間、お祝いをされた瞬間、そこに至るまでの過程を、想像してみた。

あいつ、誕生日か。なにしようかなあ。なんかあげるか。

なにあげようかな。

お酒好きそうだし、お酒でいいや。

でもお酒っていってもいっぱいあるしなあ、そういえばこの前ワイン飲んでておいしいって言ってたな。

よし、じゃあ買いに行こう。

 

とか。

その人のことを考えて、想って、形にしようと動いてはじめて、プレゼントは生まれる。

だから、正直に言えば、どうでもいい贈り物だったとしても、よくわからない喜んでいいのかボケに突っ込めばいいのかわからないものだったとしても、ただただうれしいのだと思った。

 

SNSとかで、誕生日が表示されて、今日はだれだれさんの誕生日なので、お祝いしましょう! と出てくるのがとてもイヤで、それで祝ってしまうのも、祝われるのも、何か強要されているみたいでいやらしいなあと感じていた。

すごくうわべで、うわっつらで、薄っぺらい。

贈り物も用意していないのに、お祝いの言葉だけは贈るなんて、意味ないなあと思っていた。

 

でもこれも、今はとても好き。

偶然だったとしても、今この瞬間に、その人を祝いたいという気持ちがあるから言葉があるわけで、そこにもきっと、大きな価値があるのだと思う。

だから祝いの言葉はすごくうれしくて、じぶんの誕生日を吹聴してまわって、いろんな人に、「今日誕生日なんだよ!!」って言うのも、とてもすてきなのだと思った。

 

きっとプレゼントそのものに、意味はなくて。

だからぼくは、プレゼントはもらいたくない。

ほしいのは気持ちだけで、それがプレゼントの形をしていたらとてもすてきだけれど、言葉一つで、とてもすくわれるのだと思う。

プレゼントはもらいたくないけれど、一応ほしいものを言っておくと、あおた(仮名)がくれる予定の、身につけられるもの、洋服とかは、着るたびにくれた人のことを思い出せるからとてもうれしい。

 

おめでとうの強要、それもまたいいのだと思う。

 

伏線を回収するために、満を持して言います。

今日はぼくの誕生日です!

お祝いの言葉、待ってます!!!