縛りプレイが好きという話

小学生のころ、白線の上だけを歩いて家まで帰る、とか、そういったじぶんルールみたいなのを作るのが好きだった。

別に破ったからといって罰ゲームがあるわけでもないし、じぶんの自己満足でしかないのだけれど、ついついゲームで言う、縛りプレイみたいなのをしたくなってしまう。

文章を書くときにも、この論文ではこのルール、この記事ではこのルール、とか、勝手に世界観というか、緩い決まりごとを作っている。このブログで言えば、「じぶん」を「自分」と表記しない、とか、タイトルには「〜〜の話」のように、話という語で終わらせる、とか。必ず守れているわけではないかもしれないけれど、そういった縛りを作るのが好きで、そこにらしさというか、色が出てくるんじゃないかなあと思っている。

 

高校生のころ、夏休みの課題として本の紹介文を書く、というのがあって、みんなやらなければならなかった。

ぼくは個人的に本の紹介文めっちゃ書きたいって思ったのと同時に、書いた紹介文を同じ高校の友人に売れば一石二鳥なのでは? と思った。そう思ってぼくは、紹介文をとりあえず20個書いた。これを一つ500円で売ったので、1万円を稼いだことになる。

紹介文を書くとき、一番気をつけたのはもちろん、文体とか、文章の世界観だった。同じ人が書いているとバレてしまえば問題になるのは目に見えていたので、いかに違う人が書いたっぽい文章にするか。じぶんとは違うまったくの別人格を想像して、その人の話し方とか思考の仕方を考えて書いたり、頭が良さそうな文とか、頭悪そうだけど実は気の利いた文とか、とにかく違う人が書いた文章を20用意しようと思った。

紹介する本も似たようなものにならないように、純文学、児童文学、今っぽい小説、とか、自己啓発本、絵本、英単語帳の紹介文も書いた。これが存外に面白かった。一度使った文体は使えないので、とにかく頭を使う。どんどん使用できない文体、縛りが増えて、抜け穴というか、新しい物を探して、誰からしさを生むために四苦八苦していた。

 

縛りプレイ面白いなあって思っていると、人生の理不尽もちょっと興奮するようになる。どうしようもならない、不条理や圧力も、とりあえず何も考えずに、あ、じぶん縛りプレイ好きだからいいやん、と思える。

 

人生の縛りプレイのルールでいえば、ぼくは断らない、ということを掲げている。ほかによっぽどの理由がない限り(いくら家で寝るというスケジュールがあったとしても)、来てと言われれば行くし、友だちが「何か」をやっているのであれば、それが演劇でもライブでもBBQでも、誘われれば行く。まあ誘われなくても行く。

 

自由って、意外と不自由だ。何をすればいいのかわからなくなるし、すぐ道に迷ってしまう。だから自由でいたいからこそ、不自由な縛りを増やしていくのもまた、とても面白いのだと思う。