もがき苦しむ美しさの話

金持ちと結婚したいと言っていたドイツ人の女の子は、

「悩みのない人生を送りたい」

と言っていた。

 

ぼくは当時(今もかもだけれど)、会話のキャッチボールのできない高校生だったので、グローブで一度受け止めて優しく投げ返すということができなくて、バットでその言葉のボールを全力で彼女の顔面に打ち返そうと躍起になっていた。

「悩みのない人生なんてつまらない!」

だとか、

「人は悩まずにはいられない生き物だ!」

とか、

声の大きい者が正しいのだと疑わずに、強く主張をした。

 

意見の違いがあるのは良いことに決まっているはずなのだけれど、一度じぶんの中で彼女の言葉をゆっくりと噛んで、飲みこんで、理解をしようとする努力と想像力が足りなかったなあと、今になって思う。

 

痛みのない人生を送りたい、と言われれば、共感できる部分がある。

痛いのはだれだって嫌に決まっているし、「悩み」をそうした痛みと捉えるのであれば、ないに越したことはなかった。

 

ただ、じゃあ今

「悩みのない人生を送りたい」

という意見を理解できるかと言えば、そうではない。

 

悩みとは、そこに選択の余地があるから生まれる。

ぼくらが今こうして、高校卒業後、大学に行くべきか専門学校に行くべきか、または就職するべきかと悩めるのも、どの業界で働こうかと悩めるのも、誰と関係性を築いていこうかと悩めるのも、ぜんぶ、そこに選択肢があるから。

 

悩みが苦しいと思うのは、選択の幅を広げられていないからではないかなあと思う。

究極の二択、みたいに、どっちを選んでも嫌、となると、悩んで悩んで悩んで、それでも選択できなくてしんどくなってしまうかもしれない。

 

でも、本当に二択しかないのだろうか?

戦うか逃げるかの二択ではなく、協力するとか、折り合いをつけるとか、色々できることはあるのではないだろうか。

悩みの本質は、選択することではなく、選択肢を増やすことにあると思う。

 

そんなにたくさん、考えたくないよ。

がんばって悩んだって、報われるとは限らないでしょ?

と言う人もいる。

 

人は、自らの美しさを通すために、生きているのだと思う。

筋とも、道とも、美学とも、呼ぶようなもの。

じぶんがじぶんであるために生きるのであれば、悩み抜くことは、それだけで美しい。

だから、考え続けた時点で、もう報われているのだと思う。

 

ださいかもしれない。

みっともないかもしれない。

もう何もかもがわけわからなくなって。

 

もがいて。

苦しんで。

ずっとずっと、生きてる限り、悩み続けるだろう。

 

ただ、悩むこともまた、楽しめるようになればなあと、ぼくは思う。

悩んでるじぶんのことを、楽しんで、たまに客観視できたらなあ、と。

 

あいつ、また悩んでるなあ。もがいてるなあ。苦しんでるなあ。

 

あれ。

でも、悪くないな。

じぶんの中にあるじぶんだけの正解、筋を通そうとがんばってるなあ。と。

そのみっともなさに、美しさを感じて、悩んでるじぶんを肯定できるようになる。

 

悩めるのは良いことだ。

悩むのは、とても美しい。