言葉は致命的にズレる話
電車を待つホームで、死にたいと呟く。
それだけでたぶん、周りの人はぎょっとする。
テストで0点を取った高校生が、死にたいと一言もらす。
周りの人は、みんな笑っている。
言葉には文脈が必要で、その言葉を「言葉」のまま受け取ることって、できない。
人によって様々な「赤色」があるように、「がんばれ」も「きれい」も「嫌い」だって、色々な意味を持つ。
ぼくらは、本来ふわふわしてあいまいな感情や想いを、変換してだれかに伝えるために、一番近い言葉を当てはめる。
ディベートや議論をするとき、真っ先に正しいか正しくないかの話をしだす人がいて、驚くことがある。
ぼくはいつも、
「で、何について議論するんだっけ?」
と、最初の皆の前提があっているかを確認する。
その後、
「じゃあその言葉って、どういう意味?」
と、テーマを定義しなおすところからが、議論の始まりだと思っている。
ただ、会話のときって、こんなことしないし、そもそも会話はディベートではない。
ぼくはそこを履き違えることが多くて、議論をして人を不快にさせることが多いのだけれど、結局、大前提を間違えているのだと自身に対して思う。
「何においても自分の根本にある軸があって、悩むことがないのもまた、すごく美しいと思うな」
と言ったやまは(仮名)に対して、ぼくは怒りがわいた。
他人と関わる限り、悩みがなくなることなんてないのだから、悩みがない奴なんて、ただの自己中心的なエゴまみれの人間だ!そんな人間を肯定するなんて理解ができない。
と思ったからだ。
最近、ぼくはイライラしすぎている。
ただ、よくその言葉を噛みくだいて、心にしまってみる。
彼女の言葉をぼくの言葉に翻訳すると、「悩み」は「迷い」になるのかもしれないと思った。
苦しむこと、考えることをぼくは「悩む」と翻訳していて、他人との関わりの中で何かを選ばなければいけないとき、その人の気持ちや心を考える、想像するというのは、必要なことだと思っている。
だから、「悩まない」という選択は、ひどくわがままに見えた。
じぶんの軸があって、だれかについて考えた末に、選択したことに対して、くよくよと考えないこと、思い悩まないことを、きっとやまはは「悩み」と言っている。
それはぼくにとっては「迷い」
迷わないことの美しさを、ぼくは想像することができた。
もしかしたら、彼女の主張は違うかもしれなかった。
ただ、重要なのは理解しようと努めることで、否定をしないことなのだろう。
じぶんの心が、言葉として正しく伝わることって、ないのだと思う。
相手の言葉だって一緒で、ぼくらはいつだって、表面上の言葉を否定することからではなく、理解しようとするとこから始めなければならない。
この前提を、ぼくはいつも忘れそうになる。
だからぼくらは、悩み続けなければならない。
相手の言葉に、じぶんの言葉に、心すべてに。
ただ、少しでもその「悩み」が、苦しいだけではなく、幸福を感じられるものになればいいなと、多くの人にそう思ってほしいなと思う。
その方法は、まだ見つからずにいた。