時間を守らない人の話

 

うちの母親が厳しいことなんて、ほとんどなかったのだけれど、時間に関してだけは、とてもストイックだった。

さいころから、待ち合わせとか、連絡とか、とにかく遅れないことを求められる。

時間を守ること、連絡をまめにすること、これはぼくの中でとても重要なことで、世間一般の常識なのだと、高校のころまでは思っていた。

 

なおや(仮名)は時間を守らない。時間通りに来たことは、人生で一回あるかないかくらいだと思う。

高校生だったぼくは、何度も怒った。

なんで時間通りに来ないのか、なんで連絡ができないのかがわからなかったからだ。

 

彼の意識や考え方を変えようと、10分遅れるごとに罰金とか、なおやにだけ集合時間を1時間早く伝えるとか、いろいろやったのだけれど、変わることはなかった。

ニュージーランドに行くと、誰も時間を気にしている人なんていなくて、驚いた。

大学に入ると、もっともっと、時間にルーズな人、必要な業務連絡を怠る人が増えた。

 

多様な価値観の人たちがいることを、この目でみて、感じて、知って、ぼくの考え方も大いに変わることとなる。

時間を守ることに重きをおいていない価値観の人とだって、生きていく上ではどうにか折り合いをつけていかなければいけないわけで、その価値観を変えることは容易ではない。

 

時間を守れない人は働くときに困る。

たしかにそうかもしれない。でもだからといって、ぼくらが彼らの考えを、親切に変える必要はどこにもないはずだ。

しかも今は、時間にルーズな人だって、何らかしらの仕事を見つけられるだろう。

結局、「あなたが困るから」といって、じぶんの価値観を押しつけてしまうのは、エゴ以外のなにものでもない。

 

つまり、ぼくらがしなければいけないのは、相手の考えを変えること、じぶんの価値観を押しつけることではなく、いかに違う価値観の人とじぶんがラクに付き合うかを考えることなのだ。

 

ぼくは、待ち合わせ場所にハチ公を選ばない。

だって、基本的にずっと立っていないといけないから。たくさんの人が行き交って、誰かが通るたびに、あいつ来たかなって見てしまって、違ってがっかりしてしまう。

室内の、ふかふかの椅子があるところ。喫茶店や、ファミリーレストラン

最初からそういったところを待ち合わせ場所にしてしまえば、待ちぼうけをくらってしんどくなることもない。

 

価値観の違う人っていっぱいいて、というかそんな人だらけで、新しい人に会うたびに、じぶんの考えが、星の数ほどある中の一つにすぎないのだと気づかされる。 

その違いに、ぼくもすごく苦しんだことがあった。

どうしようもなくて、歯がゆくて、なんだかとてもとても、孤独を感じて。

 

じぶんのことをわかってくれる人は、この世に一人もいないのだと、決めつけていた。

でも、言葉にして伝えないと、相手だってわからない。

じぶんがどんな気持ちになっているのか、感情をぶつけるのではなくて、感情を言葉にして伝えて。

いくらがんばったって伝わらないかもしれない。

時間を大切にしない価値観が変わることはないかもしれない。

 

それでも、話し続けたい、伝え続けたいと思えてる限りは、大丈夫なのだと、ぼくは思う。

どこかで折り合いをつけて、ラクな付き合い方を見つければ、それもまた、すてきなのだ。

 

わかってくれる人がいる。

それがすくいになることもある。

ぼくと一緒にいて、どんな人でも、少しでもすくわれてくれるのなら。

ぼくはとても幸せだなあと、そう思う。