断定する意味がわかった話
この話には続きがある。
これを読んでくれたぼくの友だちが、
「変わることを前提で今言っているんだと思う」と言っていて、どういうことだと考えた。
半日くらい経って、なるほどなーと思った。
たしかに、親友を命がけで助ける、と断言できる人は、実際救えないかもしれない。言葉にした通り、助けるかもしれない。
けれど、きっと、「助けないかもしれない。わからない」と言うような人は、たぶん絶対助けない。
変わるかもしれない。
状況や、そのときのじぶんの心の状態で、どうにでも変わってしまうこともある。
ただ、言葉にして、断定するのは、覚悟なのだろう。
変わるかもしれないけれど、変わらないでいたいから、あえて言葉にするのかもしれない。
そう思うと、結局どんな言葉も、受け手次第なのだ。
「あなたのことを、一生愛し続けます」
「ぼくは絶対に間違えない」
これらの言葉はぼくにとって、陳腐で、傲慢で、どうしようもないほど愚かなものに、つい昨日まできこえていた。
ただ、言葉の受け手であるぼくが受け手らしく主観にまみれた解釈をするのであれば、
あなたのことを、一生愛し続け(られるかわからないけれど、愛したい。そのために努力を惜しみたくない。今、その覚悟をここに、言葉として、あなたとぼくの心に誓い)ます
ぼくは絶対に(間違えないわけではないけれど、間違えたくないし、間違えないためにできることはしているつもりだ。だから間違えないわけはないのはわかっているけれど、あえて言わさせてもらうと、ぼくは)間違えない
となって、ぼく個人的には、とても気持ちがいい。
断定をする人が許せなくて、そんな「断定」を自身がしてしまっているのだけれど、何でもかんでもぼくが周りで一番断定しているのだけれど、きっとそんなじぶんのことも、許せないでいたのかもしれない。
断定する他人の気持ち悪さ。
断定するじぶんへの、心の底からの嫌悪。
今は、ちょっとだけ楽になった。
断定するだれかを否定したくなる気持ちが、どんどん薄くなっていっている気がしてくる。
それはとてもすてきなことに思えた。
断定する人をみると、すごいなあと思うときと、偏った人だなあと思うときがあると言っていた友人もいた。
誰が言葉を発しているのかと、じぶんが送り手をどう思っているのかで、たぶん変わるのだと、彼女はそう言った。
けれど、その二つは同時なのかもしれない。
すごいなあと思うのと同じくらい、偏ってるなあと思って、同時に二つの感情が生まれているのだと、ぼくは思う。
その人へのリスペクトの気持ちから、すごいなあの気持ちの方が強く浮き出てくるけれど、きっと胸の奥底には偏ってるなあという気持ちがある。
たぶん、何も考えていないバカに見えるような人が断定していると、ぼくらはその人を浅ましい、愚かしいと思ってしまう。
同時に、どこかでその人をバカにしているじぶん自身を、少し恥じてしまっている。
けれど本当は、偏ってるなあという気持ちだけではなくて、すごいなあ、という気持ちもあるはずなのだ。
だから、最初に述べた心意気が、大事なのであると、ぼくは断定する。
言葉の解釈は、受け手次第。
だったら、断定してしまっている人の言葉すべてに、勝手にかっこ()を足していって、
「あぁ、こいつも本当は不安だけど、覚悟決めるために、がんばって断定してるんだろうなあ、かわいいやつめ」
と思ってあげられたら、その偏りに「うっ」となったり、バカにしてじぶんがなんだか悪いやつ、みたいな自己嫌悪におちいったりしなくなるのである。
これが断定についての正解だ。