偽善者大好きという話

偽善者って、とてもすてきだ。

 


偽善とは、心にも思っていないのに、うわべで行われる善のことだとぼくは定義づけている。

じぶんの善の心から、すなおに善い行いをできる人を善人と呼ぶのかもしれないけれど、それって苦労がない。迷いも、悩みも、何もないのだと思う。

そうではなくて、やった方がいいかな、やらない方がいいかな、やりたくないな、でもやらなきゃな、とか、いろんな迷いや苦しみを経て、行われることの方が、よっぽど価値があるんだと思う。

だからぼくは、愛想のいい人が好きだ。腹に何かを抱えているように思えたとしても、心の中では何考えてるのかわからないような人でも、愛想をよくしようと行動してる事実は変えられないし、その努力が、とても尊いのだと思う。

だから、偽善者が好きだ。

 


取り繕って、外面を気にして、だれかのことを考えて、善人のフリをするのが、とてもよいことだと思う。

じぶんの心って本当に正直で、いやだなあと思うことに関しては、勝手に反応して、いやだなあと思ってしまう。怒りも、悲しみも、心から生まれなくすることは、とてもとても難しくて、もはや不可能に近いのではないかなあと思っている。

その感情を、無視する必要も、悪だと断定する必要も、振り回される必要も、何一つないのではないだろうか。

生まれてしまうものは仕方がない。

 


ぼくはよくイライラしてしまう。ムカつくし、怒りがわくことがある。

ただ、できていないときもたくさんあるけれど、その感情を人にぶつけないようにしている。感情を感情のままに受けとめて、一度飲みこんで、善人ぶって、取り繕っている。

きれいな言葉だけを使うように気をつけていて、偽善者だと呼ばれる。

 


ぼくにとって、偽善者は褒め言葉だ。

むしろたくさんたくさん考えた末に、生まれた感情の結末が、偽善であるのなら、そこには価値しかないのだと、そう思う。

 

あおたは偽善者を嫌いではないと言う。

悪に走るよりは、よいのだと言う。

施しを受けた人は、それを善か偽善かわからないから。

やらない善よりやる偽善。

 

ぼくは、善であれないことに苦しんでいるのがもったいないなあと感じている。

行動が、言葉が、ぼくらの心を強く変えてしまえることを、知っている。

だからどんな心を持っていたのだとしても、うわっつらだったとしても、目に見えるところから、何かを変えていけば、いつか本物の偽善者になれるのではないかなあと思う。

偽善者が、好きで好きでたまらないのである。