何を悲観する必要があるのかという話

お金がない。

将来何をしたいのかがわからない。

じぶんが優秀ではないと感じている。

未来に希望が持てなくて、もう何をしていても無意味だと感じている。

 

がんばって偏差値の高い大学に入ったって、大企業に入ったって、今の世の中じゃあ、なんの意味もないと思ってしまう。

がんばっても志望していた大学に行けなくて、よくわからない会社に入社して、人生終わったなあと感じている。

 

楽してお金稼ぎたい。

安定してお金が稼ぎたい。

 

家族に心配かけないために。

今までの恩を返さないと。

 

 

そんなのぜんぶ、どうでもいい。

人のせいにするな。

じぶんのために、ひとのためをやれ。

 

大学の授業で、プレゼンテーションがあって、

「この世の中にあればあるほど困らないものってなんですか?」

ってぼくがきいた。

4人ぐらいのグループで、4、5組に話し合ってもらったのだけれど、発表してもらうと、みんな「お金」と答えた。

 

ぼくはぶちぎれた。心の中で、盛大に。

「なんで?」

ときくと、

「お金があれば、パン屋さんをやりたいというじぶんの夢が叶えられるから」

と答えて、

「じゃあパン屋さんを始められるだけの、じぶんの夢に必要なだけのお金でよくない?」

と言ったら、

「いや、あればあるほどいい」

と言われた。

 

お金を絶対的な指標にしすぎていると、彼らをみて思った。

お金は汚いものとは思わない。必要ないとも思わない。お金を稼ぐのは必要な行為なのもわかる。

だけれども、お金を稼ぐために働いているわけではないのだと、思う。

給料で仕事を決めるのも、安定で仕事を決めるのも、よくわからないなあと思う。

これはぼくが恵まれた環境で、少なくとも食べるものに困るくらいの不自由はまったくしなかったからこそ、言える言葉なのかもしれない。

ただ、同じように大学に行き、同じように生きている(と思われる)学生に、お金が一番必要だと、口を揃えて言われたのがショックだった。

 

お金をもらうのも、給料があがるのも、うれしい。でもそれって、じぶんの働きへの対価であり、その仕事を認められたから、もらえたものなのだと思う。

だから、何もしていないのに、お金がいっぱいある状態を、よいと思えるのがよくわからなかった。

 

ぼくの尊敬する赤髪のネーナ先生はいつも、

「私は一度もお金を求めたことはなかった。じぶんの情熱を追っていたら、気づいたらお金がついてきたんだ」

と言っていて、彼女の情熱は、言葉からにじみ出て、生き生きとしていた。

 

お金は大事だ。

お金に苦労したことのないぼくが言う、薄っぺらい言葉。

 

ただ、受け売りでしかないけれど、人の方がよっぽど大事なのだと、そう思う。

お金があればあるほどいい。じゃあ、周りの人をみんな騙して、蹴落として、そうしたら大大大金持ちになれるのだとしたら、なりますか?

 

よっぽど、周りにいる人たちの方が大事だ。お金を稼ぐよりも、信頼を稼いでいった方が、よっぽど資産になる。

誠実でいること。

じぶんのために、ひとのためを想うこと。

 

ぜんぶぜんぶ、今すぐ始められる。働いて、お金を稼ぐことよりも、よっぽど簡単で、とてもとても、おおきな意味を持っている。

 

たまにぼくのことを、

「めっちゃいいやつ」

と言う人がいる。(偽善者と呼ぶ人もいる)

 

けれどぼくは、ただいいやつなだけではなくて、頭がいいやつなのである。

誠実でいて、だれかのためを想って生きていると、のちのち、活きてくるのだ。

無意味な親切かもしれない。すぐ忘れられてしまうかもしれない。

 

ぼくはぼくが関わって、たくさんの大切な人ができて、その人たちが困っているなら、できることを全力でしたいと思う。

それと同じくらい、この人なら困っているぼくを、助けてくれるのではないかと期待してしまっている。

 

難しいタイミングもある。

できないことだってある。

絶対に助けてくれるだろうとは思わなくて、もしかしたらちょっとだけ、手を貸してくれるかもしれないという淡い下心を持っている。

 

将来を悲観している人がいるのなら。

その必要はないのではないかなあとぼくは思う。

今目の前にいる人を大切にするところから、始めればいいのだ。

 

ぼくはまだ、誠実になりきれていない。

ただ、誠実でいたいと願い続けて、考え続けている。

だから、もしぼくが誠実でなくなりそうになったら、言葉を尽くしてくれたらうれしいなあと思う。

あなたが誠実でなくなったときも、ぼくは伝えたい。エゴでもなく、わがままでもなく、ただ言葉にして伝えられたらなあと、願っている。