おっきなシェアハウスの夢の話
今って、音楽も、車も、シェアが流行っている。みんなで一緒に使う、という概念がぼくはとても好きで、今後その動きは加速し続けるのではないかと思っている。
家だって、人はシェアをしている。
じぶんのものとか、所有していることの価値って、どんどん低くなってきている気がしていて、だからこそSNSはとても人気なのだろう。
じぶんの気持ちや、じぶんが撮った写真とか、そういうものでさえ、ただ所有しているのでは意味がなくて、誰かに共有したいと願い続ける。
共有が増えているといっても、みんな一人ひとつ携帯電話を持っているし、人がモノを保有していたいという気持ちが消えることはないと思うかもしれないけれど、携帯電話でさえ、そのモノ自体に意味はなくなってきているはずだ。
携帯電話をなくすことよりも、(結局じぶんが保有しているわけではない、企業から提供された)SNSのアカウントが消えてしまうことの方が、今の若い人たちにとってはショックに違いない。
きいた話によると、田舎や昔の時代では、共有が当たり前だったらしい。
村に一つしかないテレビを見るために、みんなでその人の家に押しかけて見ていた。
醤油がなくなってしまったから、隣の家の人に借りにいった。
とか。
地域社会では、子どもはみんなで育てる、という意識があって、地域のおじさんとかが一緒に遊んだり、たまには強く叱ったりすることがあった。
とてもすてきだと思うけれど、昔の共有には問題点もいくつかあった。
コミュニティに流動性がないため、閉塞感が強くあるのだ。
しかも、付き合う人間を選べない。ともに生きるか、ともに死ぬか、の二択を迫られ、合わないと感じる人にとっては地獄でしかない。
これからの共有は、とても明るく、ポジティブだとぼくは思う。
それがシェアハウスだ。
じぶんの好きな人たちだけがいる大きな家。
そこでは独身の人、同棲しているカップルの人、子どものいる家族の人、どんな人がいてもよい。
そこでは、食べ物をシェアして、スキルをシェアして、時間をシェアできる。
仕事だって、子育てだって、シェアしてしまえばよい。
(ぼくはつねづね、人はカップル2組一緒に住んだ方がよいのではないかと思っていて、そうすれば子どもを育てるのも、もっと楽しいんじゃないかあって、安易に考えている。お互いに寛容で好き合ってる四人がいれば、ヘタな浮気はしないのではないかとも思っている)
結局この考えって、国とか村とかと似ている。シェアというのをお金というモノサシでわかりやすくしたのが今の経済だ。
じゃあこのシェアハウスというのが、どう違うのかというと、流動性なのである。
じぶんが所属している国は簡単に変えられないし、村から村へ、合わないなあと感じるたびに移り住むのは難しい。
けれど、こういったおっきなシェアハウスが増えていって、じぶんに合ったシェアハウスに住む、という考えが一般的になれば、とても生きやすくなるのではないかあと思う。
今って、電車とかのおかげで、誰かに会うっていうハードルが下がっている。
歩いたら2時間かかるような距離も、電車では10分とかだ。
ネットで繋がっているし、いつでもカメラ越しに顔を見ることもできる。
だからわざわざ同じ家に住む、ということに疑問をおぼえる人もいるだろう。
けれど、そんな現代だからこそ、物理的な距離もまた、大事なのではないかとぼくは思っている。
とくに、帰る場所、寝る場所、住む場所、というのは、人が一番落ち着ける場所のはずだ。
そんな落ち着ける場所に、好きな人がたくさん待ってくれていて、いろんな都合がある中で、会えない人もいるだろうけれど、でも誰かは居てくれるかもな、と期待しながら帰るというのは、とても幸せなのではないかと思う。
そんなことを、夢見ている。