だれも卒業しない

大学の卒業式はなかったのだけれど、学位授与のために集まる人で、キャンパス内は途方もなくにぎわっていた。

 

はかま、きれいだなあとか思いながら、ぼくは一人でベンチに座っている。

こうたろう(仮名)と一緒に来ていたのだけど、ゼミの集まりがあるとかなんとか言って、すぐにわかれてしまった。

 

ぼくは女の子のはかま姿を見るのを主な目的にして大学に来ていたから、色とりどりのはかまを着た人たちをぼぅっと眺めるのも楽しいといえば楽しい。

けれど、なんというか、一人って心細い。基本的にぼくは外の世界が苦手で、家じゃない場所で一人でいるのを楽しみきることができないタチだった。

映画館も美術館も買い物だって、一人ではやりたくない。

 

一人でいるなんて恥ずかしいから見られたくない、とか、勇気がない、というわけではなかった。

 

世界。

この言葉がふさわしいのかはわからないけれど。

ぼくにとって、世界はその空間にいる人たちによって形づくられる。

世界をじぶんの中に留めておくことができない、と言えばいいのだろうか。

家にいれば、世界はじぶんの中だけ。他の人もいないので、じぶんが思い悩んだり、考え込む対象が増えたりすることはない。世界はじぶん一人に限定される。

外に出ると、世界は急に拡がって、すれ違うサラリーマンについて考え、バスを待つおばあちゃんについて考え、新聞持って散歩してるおじさんについて考えなければいけなくなる。

その世界の拡がりが、気持ちよく、心地よく感じられることもあるけれど、人が増えれば増えるほど、不快感は増してゆく。

 

そんなとき、視野を狭めてくれるのが、友だちなのだと思う。

じぶんとそいつ。考える対象が一気に少なくなって、広すぎて心細くなることがなくなる。

それでも結局、世界はすぐそばにあるから、気が散ってしまって、初対面の人に、人でごみごみしたところで会うのは難しいなあと思う。

 

ずいぶんと話がそれてしまったけれど、そんな心細い中でみなみ(仮名)が声をかけてくれた。

母親とみなみの二人でいて、赤いはかまはとてもとても美しく、品のある彼女には似合っていた。

母親との写真を撮りたいらしくて、

「え、逆にいいんですか?? ぼくが撮って」

って思うくらいすてきなことをさせてくれるなあとぼくは思った。

場所を二回、変えながら、十数枚の写真を撮る。

ベンチで座ってたの万歳。こうたろう万歳。

 

人の写真撮るのって、やっぱり最高にすてきなことだなあ。

しかも大学の卒業式。みんなとてもいい笑顔で、幸せそうで、ぼくはその後も、頼まれてもいないのに

「写真撮りましょうか?」

と言って友だちの友だちの集合写真を撮ったり、集まった友人たちを勝手にぱしゃぱしゃと撮っていた。

みんなとてもきれいで、よく晴れた暖かい日で、とにもかくにもぼくは幸せに包まれた。

 

中学や高校のころの卒業式では泣いていた人が少なからずいた。

それなのに大学では泣かなかったのは、それが別れではないことを、みんな知っているからだ。

「またね」

と言うと、みなみが

「またね、って言えるのいいね。  またね」

と言って笑った。

いつかはまったくわからない。

けれど、またすぐ会うだろうという、陽だまりみたいな、心地の良い予感があった。

 

ただ、一つ心残りがあるとすればぼくはみなみとのツーショットを撮り忘れていて、人生で初めて、時間を巻き戻したいと思った。

結局、はかまを着た女の子と、二人きりで写真を撮ることは一度もなかった。

だれも卒業しないで。

また来年も卒業式やりたいです。