先輩のキスの話

あれは大学一年生の、ちょっと肌寒くなってきた今くらいの時期のことだ。

 

ぼくはバスケのサークルに入っていて、高田馬場で練習したあと、 わっしょいという居酒屋でみんなで飲むのが決まったパターンだった。その日も例に漏れず、15人くらいで飲んでいたのだと思う。ビールがピッチャーで運ばれてきて、小さなグラスにそそぐ。まだお酒をあまり飲んだことがなかったので、とてもまずかったのを覚えている。

最近ぬまの(仮名)がビールの味を、おっさんのすね毛と表現していて、なるほど、と思った。もちろん、全然わからなかった。食べたことあるんですか、おっさんを。

 

その後、集まりは解散して、ぼくは電車に乗る。

たぶん23時過ぎだったと思う。

電車から降りたとき、改札に近くなるために、ぼくは電車の中で歩いていたのだけれど、そうしたら同じサークルの、さっきまで一緒に飲んでいた女の先輩に会った。

「あれ、先輩、同じ電車なんですか」

ときくと、先輩はぼくと同じ駅で降りるのだと教えてくれた。

なんだ、ようすけ、じゃあこれからは一緒に帰れるね、とか先輩に言われて、ぼくは内心うれしかった。

先輩はきれいな人だったし、一人で帰るより二人の方が、よっぽど楽しいと思われた。

 

ぼくと先輩は二人で電車を降りて、改札から出る。

先輩は結構酔っていて、というかかなりベロベロで、サークルのグチとかを言いながら、わかってくれるのはようすけしかいない、と何度も繰り返し言った。

ぼくはただ頷いて、先輩大変ですね……、と言い続けた。

本当は何もわかっていなかった。

 

駅から30分ほど歩くため、いつもタクシーで帰ると先輩は言っていたけれど、ぼくに付き合ってくれたのか、その日は二人で歩いた。

5分ぐらい歩くと、先輩はぼくにカバンを渡し、黒のヒールのクツを脱ぎ、裸足で先へ先へと歩き始める。

ぼくは先輩の荷物を両手にかかえ、肌寒いはずなのに額に汗をかきながら、彼女を追いかけた。

「いつも裸足になるんですか」

とぼくがきくと、そんなわけないでしょ、ばか、と言われた。

 

ようすけ! と突然名前を呼んで、前を歩いていた先輩がくるりと振り返る。

お参りするよ、と言って、左手に見えていた神社に入った先輩は、荒々しく礼をすると、がらがらがら! と鈴を鳴らし、パンパン、と手を叩く。

ぼくは両手がふさがっていたので、迷った末に深々とお辞儀をした。頭をあげると先輩はもういなくて、慌てて追いかける。

こんな雑に参拝するなんて、なんて罰当たりなのだろう、と思った。

酔っ払いは神も仏も、こわくないのだろうな。まあぼくも、神や仏よりよっぽど酔っ払いの方がこわいから、同じなのだろう。

 

その後も先輩は、急に走り出したり、側転をしたりした。

ぼくは先輩がケガをしないかとヒヤヒヤしていたので、

「やめましょうよ、先輩」

と言ったのだけれど、先輩は、ようすけ、私のことが信じられないのか、と言った。

信じる信じないの問題ではなかった。

 

ついに先輩の家の前に着いて、彼女にカバンとヒールを渡す。

ここまでありがとう、と彼女は言った。

もう先輩の家は目の前なのに、

「気をつけて帰ってください」

とぼくは言う。

彼女は笑うと、ぼくの頬にキスをして、おやすみと言った。

家に入っていく先輩を見送って、ぼくは10秒くらい立ちつくす。

何をされたのかわからなかった。

 

嵐みたいな人だなあと、思った。

わがままで、めちゃくちゃで、意味わからなくて。

居心地よかったなあ、とぼくは思う。

きっとぼくは、振り回されたいのだ。

これからもずっと、先輩には振り回され続けるのだろうなという、ささやかな予感をぼくは覚えていた。

 

 

その後、先輩と一緒に帰ることは一度たりともなかった。