嫌なことがあると最高にうれしい話
カラオケが千円分くらい、無料になるクーポンがあって、ぼくは二年前、夕方に一人で行くことにした。
ぼくは友だちとカラオケに行くのが、大好きというわけではない。
話せないから。もっともっと話して、語り合って、夜を明かしたいと考えてしまう。
ただ、たまに行くカラオケは、日頃の、胸にこもった心みたいなのを、わああっと叫んで吐き出してしまえる気がして、嫌いではなかった。
だれかと行くカラオケと違って、一人でのカラオケは選曲もじぶんの下手くそさも気にする必要がないから、好きだ。
その日も、無料であるなら行くしかない、とモチベーションを高めて、わくわくとお店へと向かう。
エレベーターに乗り込んで、待ちきれなくて、ぼくは携帯電話の、クーポンを使用するというところをタップする。
特に注意事項は書いてなくて、このまま店員さんに見せればいいのだと思って、意気揚々と見せたら、
「使用済みなので使えないっす」
と言われた。
いや、今押したんですけど…。
ぼくが言うも、店員は首を横にふる。
画面には、使用済みになった時間がきちんと書いてあって、たった今さっき押されたことが見ればわかって、ぼくは食い下がる。
「ルールなので、無理っす」
は、はあ。わかりました…。
悲しかった。最初は店員に対して怒りがわいたけれど、今度はじぶんに怒りが向いて、そこも通りこして虚しくなった。
なんかもうどうでもよくなって、こんなテンションで、この店員にお金払ってカラオケするのはバカらしく感じられて、ぼくは店を出る。
悪いのはぼくだった。ただ、なんだかやるせなかった。
このままでは終われまい、と強く思う。
この萎えてしまった気持ちを放っておけば、ぼくはぼくの感情に負けてしまうことになる。
それは許せなかった。
どうせなら、いつもはしないことをしよう。
カラオケに行かなくて、あのとき断られてよかった、と思えることをしよう。
空を見上げると、飛行機雲の端が赤く照らされている。空は薄い、白と黄色の混ざったような色をしていて、奥にいけばいくほど、美しい緋色に染められていっていた。
夕日の沈むところをみたい。
高い場所から見る夕暮れは、きっと、きれいに違いない。
そう思った。
たどり着いたのは、地下と地上階に飲食店が並んでいて、二階から上がホテルになっている建物。そこの裏手にはむき出しの非常階段みたいなものがあって、一階から二階に行くまでのところには格子戸がある。
鍵がかかっている。
ぼくは手を格子の間にいれて、ドアノブのつまみに触れる。
カチッと音がして、扉があいた。
どんどん! と音がする。
ぼくは肩をすくませて、後ろを振り返る。
コックの格好をしたおじさんが、ぼくの方をちらりと見たかと思うと、すぐにいなくなった。
ふぅ、とため息をつく。
堂々としなければならない。おどおどとしていたら、逆に怪しいはずだ。
階段をゆっくり、だれに遭遇した場合でも自信を持って、関係者顔をできるように、心を落ち着かせながらのぼった。
こちら田中ビルですよね? 屋上のアンテナ設備の点検にきたアサヒの者ですが。
よし、もしだれかに見つかって、どなたですかって言われたらこれで通そう。違いますって言われたら、間違えました笑 って言ってそそくさと帰ればいいだろう。
もしとくにきかれなければ笑顔でこんにちは、だ。
10階くらいだろうか。階数の表示はなくて、どこまでのぼったのかはわからなかった。屋上まできちんと通じているのかもわからなくて、このままあがっていいのか、不安になる。
ぎぎー! と錆びた鉄の扉があく音がした。
下からだ。それほど遠くはない。ぼくは振り返ることもせず、一気に階段を駆けのぼる。
屋上は、とても広かった。よくわからないタンクや機械が並んでいて、その間の細い道を通って、奥へといく。
なんてことはないはずの景色。
そのはずなのに、心が奪われる。空が近くに感じられて、沈む夕日が、やけに大きく見えた。
ムカムカや、嫌な気持ちはどこかへと消えていた。むしろ、充足感に満ちていて、今日一日、良いことしかなかったように感じられる。
法的に正しくない行い。
きっともう、行くことはないだろう。
ただ、あのときは、行かざるをえないと思って、嫌なことがあったからこそ、背中を押されて、最高な瞬間を見ることができた。
嫌だなあと思って、落ち込んでいたからこそ、すごくすごく、うれしかったのだと思う。
だからぼくは、嫌なことがあると、どこかちょっとうれしい。すてきを見つけてやろうと思って、ささやかな喜びも、幸せだなあと思える。
最高にうれしくなって、たまらない。
嫌なことがあったら、それを言い訳にしてしまえばいいのだと思う。
普段はできないことを、してしまう言い訳。
ぜんぶぜんぶ、嫌なことがあったせいにして、すてきを見つけるために行動すれば、見つからなかったはずのものが見つかる。
だからぼくは、嫌なことが嫌いではない。