矛盾を抱えた部活の話

大学生になると、部活動やサークルなど、なんらかしらを始める人は多い。むしろ勉学のほかに言えば、大学生活の醍醐味は部活やサークルなどの活動といってもいいだろう。よさこいを始めるもよし、ファッションショー団体に所属するもよし、バンドを始めるもよし、フットサルサークルで遊ぶもよし、体育会の部活に入ってみっちりしごかれるもよし。

やはり新しいコミュニティに飛び込むのだから、最初はとても勇気と体力がいるけれど、その価値は見つけられると思う。そこで出会った仲間は、一生涯付き合っていくかもしれない。

ぼくは常々、人生は友だち一人できれば儲けものだと思っている。一人いれば、人生はより豊かだ。二人いれば、この上なく幸せだろう。三人いれば、もう何もいらない。

小学校中学校高校は閉じたコミュニティで、少し難しい。そこで友だちが見つかることもあるかもしれないが、見つからなかったって何も不思議ではないし、何も恥じることはないはずだ。


小説を読むのも書くのも好きだったぼくは、大学に入ったら絶対に文芸部に入ろうと思った。一緒に好きな小説について語ったり、新しい物語について話し合ったりできたら、とても楽しい。

意気揚々と迎えた入学式。もらったガイダンス資料の、部活動の一覧を見る。うちの大学に、文芸部はなかった。

 

そこには「文学散歩の会」と書いてあった。文学の会と散歩の会が合体してできたのかと思っていたら、文学散歩をする会らしかった。文学散歩ってなんだよ。

どうやら文豪ゆかりの地とかに行って、ぷらぷら観光をしたり、文芸部として部誌を作ったりするらしい。文芸部には絶対入りたかったぼくは、入部することにした。

アウトドアな文化系の部活。文芸部としての活動だけでなく、散歩もするその性質上、部誌を作らないカジュアルな人たちも入部をしていた。

ただ、散歩をする部活に入部する人たちは、内向的な人が多い。内向きというか、落ち着いているというか、あまり騒ぐのを好まない。

一人でいるのは嫌だけれど、大人数もまたそれはそれで嫌。そういった性質の人たちがたくさん集まるものだから、とても難しい。部活動を盛り上げるために活動を増やしたり、部員を増やしたりしようとすると、必ず不満が生まれて、内部分裂が起こり、緩やかに消滅していく。

そんな、部活動やサークルといったコミュニティ(仲良しグループの友だちのコミュニティと違って、人が増え、人間関係が広がっていく性質を持ったコミュニティ)とすこぶる相性の悪い「文学散歩の会」は、生まれた時から矛盾を抱えたおそろしい部活なのだ。

ぼくはそこで編集長としてコミュニティを引っかき回し、改革を行おうとして修復不可能なレベルにまでぶっ壊してしまった。その責任の一端はもちろん、ぼくにある。

 

「文学散歩の会」でぼくが学んだことは多い。いくら熱い思いを持っていようが、他人からしたらそれは迷惑なだけで、押し付けで、よりよくしようとするのはエゴであること。現状に満足してる人、変えてほしくない人は少なからずいて、そこを尊重できないと、ぼくはただの暴君だ。

悩んで、行動して、失敗して、っていうプロセスは無駄にはならなくて、それを近くで見てくれている人もいて、ぼくは先輩や後輩とはうまくいかなかったことが多かったけれど、同期にはとてもすくわれた。今、とても大切だと思える人が、文学散歩の会の同期にはいる。

 

人生には友だちが一人いればより豊かで、二人いればこの上なく幸せ、三人いたら、もう何もいらない。

そう思っていたけれど、ぼくはもう、ぼくが心から大切にしたい友だちが、片手では足りないくらいいる。もう何もいらないと思っていたけれど、ぼくはどうやら欲張りだ。また一人、友だちが増えたら、それはとてもとても素敵だなあと思った。