写真が好きという話

写真をよく撮る人、撮らない人がいると思うけれど、今のスマホが何を売りにしているのかを考えたら、写真を撮る人がいかに多いかがわかる気がする。

 

ぼくは写真を撮るのが大好きだ。この一年半で1万枚撮っていた。ただそれは、風景とか、美しいものとか、心に響く詩のような写真ではない。どちらかというと、日記みたいなもので、見返したときに、ぼく個人に一番刺さるものだ。人の写真。今一緒にいる人との写真。笑っている友だちの写真。遊んだ場所とか、食べているものとか、そういう、ほかの人たちにとってはどうでもよい写真。

忘れるのがこわい。ささやかな幸せは、すぐに埋もれるから。その場所に行ったのは覚えているのに、誰と一緒に行ったのかを、ぼくは忘れてしまう。一番大事なことなのに。何をするよりも、一緒だったその人が、何よりも尊いのに。

だから、写真は好きだった。写真を見れば、思い出すことができる。引き金となって、その写真の前後の映像が頭の中で流れて、そういえばあんなことしたなあと思える。

 

ぼくはずっと前から写真を撮るのが好きで、けれどSNSにアップするわけでもないから、よく不思議がられた。思い出用に残した写真を、わざわざ誰かにシェアしたいとも思えず、一緒に撮った人にもなかなか共有しないため、普段めったにやりとりしない人と、「今日の写真ください」「おけ」というメッセージだけ送りあうこともあって、それはそれで面白い。

 

写真を見返して初めて、あ、こんなにこの人と一緒にいたんだな、めちゃくちゃいろんなところ一緒に行ってるのね、とわかることもある。暇なときに見て、ニヤニヤして、会いたいなあとか思ったりする。

 

ぼくが日記がわりに撮っているのとは逆に、写真を撮ろうと思って撮る人たちがいる。同じ写真でも、まったく性質の違うものだ。

一瞬の美しさに魅入られ、心を震わせるその人たちは、すごくすてきだなと思う。動画でも絵でも言葉でもない、写真。

昔の人が、写真を撮られたら魂を閉じこめられてしまうと怯えたのも、わかる気がする。写真はとても美しい。景色や人、言葉すらも時間とともに変わっていく中で、切り取られたその一瞬は、時間の前後を思い起こさせるのではなく、今を感じさせてくれる。

 

変わることは、すてきではあるが、同時にとてもこわいことだ。

じぶんの心さえも変わってしまいそうで、不安になることがある。

だから、彼らの撮るような写真があるのだろう。なにもかもが変わってしまうこの世界で、一瞬だけでも閉じこめて、心を震わせたい。

ぼくらは写真をみて、どこかほっとする。言葉はあまり出てこなくて、感情だけがにじんで、いいなあと、思う。

 

ぼくは、そういう写真を撮れない。けれどそれはそれでいいのかなと思ったりもする。

ぼくはぼくの撮る写真が、大好きだ。

そこには、人がいるから。