お前らほんとクソだな、と吐き捨ててから、拾って食べる話
信じられないかもしれないけれど、この話は明るく終わります。
ほんとにほんとに、サイアクだ。
砂浜に打ち上げられた、ぶよぶよのクラゲの死んだ姿をみたときみたいな気分。
怒るお前も、嫉妬するお前も、貶めようとするお前も、誰も愛せないお前も、誰かに愛されようとするお前も、すぐ泣くお前も、感情的にしかならないお前も、慰められてるお前も。
許されようとするお前も。
ほんとにくそだな。
胸がずっと、ぐわぁーってなってるお前ら。
みんなに対する が溢れて、もう でたまらなくて。
悔しいなあ。
何がお前の感情をそうさせるんだろうなあ。
何をすれば、
この、
虹の数と同じくらいある
この感情の色を、青空みたいに単純できれいな水色にできるんだろうか。
みんな、それぞれが、とうてい理解することのできないくらい致命的にズレているんだと思う。
価値観とか、考え方とか、大事にしたいこととか、大切にするべきだと思っていることとか。
ぼくらの目は、うまくできている。
みたくないもの、遠ざけたいもの、必要ではないと思ったものを、みないようにすることができる。
あえてみないことで、見えることもあるんだ。
細かいところに囚われないで、とらわれないで。
その人の心の、大まかな輪郭をなぞるだけで知った気になって、知った気になることが重要だったりする。
知らないことを詳しく知ろうとするんじゃなくて、知らないことを知っているだけで、いいこともあったりする。
ぼくは何も知らないで、知ろうともしないで、思い込みで居るだけなのかもしれない。
でもやっぱり、わからない。
もう疲れてしまった。
何もかもに疲れて、いいやーってなっちゃった。
人に疲れて、一緒にいるのに疲れて、泣くのに疲れて、誰かの気持ちを想像するのにも疲れて。(上手に想像できたことなんてないのにね)
人を責めようとする自分に、一番疲れる。
結局、ぼく自身の問題だなんてのはわかってる。
わかりきっている。
だれかが変わったんじゃなくて、ぼく自身の環境が、ぼく自身の心が、余裕のなくなっているだけ。
話をきいてほしいと言って言葉をぶちまけるとき、本当は聞いて欲しいんじゃないんだ。
ぼくだけの味方でいてほしい。
このとき、その瞬間だけは、誰でもなくぼくの言葉に、うんうん、そうだったんだね、しんどかったんだねって言ってほしい。
くそみたいにわがままで、甘ったれで、どうしようもない人間だ。
子どもみたいに泣きじゃくってるぼくは、ずっと赤ちゃんのまま。
ぼくはどうして、こんなに泣き続けているのだろうか。
大切な人のことを考えていたら、涙がとまらないや。
大嫌いで、大好きな人たち。
今も書きながら、ひとりで泣きじゃくってる。
意味わからないなあ。
もう会わないのかと思ったら、胸がずっと、ぐわぁーってするんだ。
うける。
信じられないかもしれないけれど、この話はこのまま終わる。
明るく終わりますって先に言っておけば、明るくできるかと思ったけれど、やっぱり無理だったわ。
ごめん。
人生は不思議な出会いにあふれているはなし vol.1
今となってはきっかけなんて思い出せないが、高校生の時、ジャン=ミシェル・バスキアの絵を初めて観た。
その感情の爆発は衝撃的で、彼の制作背景を知っていくうちに、どんどん惹かれていった。
出会いから5年、彼の個展が日本で開催される。高まる心臓を抑えられず、胸に手を当ててひとり、六本木の駅を降りた。
六本木ヒルズにつながる美術館は思っていたより混みごみしていて、受付のお兄さんが大声で叫んでいる。
“チケットをお買い求めの方は3時間待ちです。”
その日はアルバイトがあり、どうしても3時間は待てなかった。
最終日だった。行き場を失った悲しみにひたり、喫煙所を探した。バイトまで何をしよう。
よくわからない名前の有名人が、お昼のテレビ番組の撮影をしている。
声が大きいなあ。
せっかく早起きしたのに、たばこをふかして晴れた日曜日の午前中をつぶすのはもったいない。
もうひとつ見たい展示があった。調べると、電車で15分もかからない。
決まり。
ラウル・デュフィはテキスタイルデザインで知られるが、色彩の魔術師と呼ばれる彼の本髄は、やはり絵画にあるのだと思う。
バスキア展と打って変わって、おじい様とおばあ様が多い。受付を抜けると、彼の絵画やテキスタイルが、年代順に壁に掛けられていた。
ひときわ目を引く、大きな絵。オーケストラを描いた、音が響いてくるようなあたたかい絵だった。
絵画のことは正直よくわかっていない。でも美術館での自分ルールはそれなりにあった。
まず、遠くから見て、全体を感じる。
近づいて、ひとつひとつのディテールに注目してみる。
そしてまた、遠くから、全体を見る。
だんだんと混雑してきた美術館で、後ろに下がろうと一歩引くと、誰かにぶつかった。
“あ、すみません。あの、すみません。すみません。”
3回目でようやく、この人は謝っているのではなく、わたしに呼び掛けているのだと気づいた。
振り返ると、わたしと同じか少し若いくらいのきれいな男の子が、真摯な目でこちらを見ていた。
急に話かけられて驚いたわたしは、訝しい顔で短く、はい、と返事をした。
彼は、何かとても言いづらいことを言う前の男の人の顔をしていた。
そして、すごく小さな声で話した。
“僕、絵を描いているんです。あなたの絵を描かせてもらえませんか。”
予想外の発言にハテナがいっぱいのわたしを見て、彼は早口に説明した。
彼は大学で絵を描いていて、わたしが美術館に入ってきたときに、直観でこの人を描きたいと思ったそうだ。話しかける機会をうかがっていたら、ちょうどわたしがぶつかってしまったらしい。
何時間でも待つから、写真を1枚だけ撮らせてほしいと、彼は言った。
普通なら検討もせずに断るのだが、美術館という空間と彼のきれいな目が、わたしをうなづかせた。
1時間ほどかけてデュフィの作品を見終わり外に出ると、ベンチに座っていた彼が顔をあげた。
急にすみません、と短く謝り、じゃあ、と正面から、本当に1枚だけ写真を撮った。
“あの、ありがとうございました。”
宣言通り写真を1枚だけ撮って、わたしたちは美術館を後にした。
駅までの帰り道、彼は自分のことをたくさん話してくれた。
神戸の大学の2年生であること、教授がバスキア展の関係者でチケットをもらい東京に来たこと、神戸には何もなく飽き飽きしていること、東京には美術館がたくさんあって回り切れないこと、こんな風に誰かに写真を頼むのは初めてだということ。
ピカソが好きらしい彼は、ピカソの絵に込められた想いを教えてくれた。
一見とても抽象的で難解な絵を描くパブロ・ピカソは、キュビズムの第一人者。
ピカソが何を想い、伝えようと絵を描いたのか、知っていくのが楽しいのだと、彼は言った。
駅の改札で再びお礼を言い、じゃあ。と小さくお辞儀をする彼に、絵、がんばってね。と伝え別れた。
彼とはそれっきり連絡を取っていない。というのも、連絡先どころか名前すら聞いていなかった。
知っているのは、神戸の大学の2年生で、ピカソが好きということだけ。
本当にわたしの絵を描きたいと、それだけで話しかけてくれたのだと思うと、バイト先に向かう電車でなんだかうれしかった。
あれから半年ほどたっただろうか。彼が人物画を1枚描き切るのにどれだけ時間がかかるかわからないが、ときたまふと思い出しては、絵は完成しただろうかと、見ることの無い自分の絵を想像してしっとりとした気持ちになる。
見てみたかったなあと思い、少し後悔する。きれいな目をした彼はきっと、すごくきれいな絵を描くんだ。
男飯(おとこめし)とか意味わからん
男飯に納得がいかない。
男メシ 調理がさほど難しくなく(料理無精な男性でも作りやすく)、豪快な趣があり(男性的)、男性の多くにとって好物となり得るような種類の料理を総称した俗な呼び名。
調理がさほど難しくなく、豪快な趣のある飯を男飯と呼ぶだなんて、世の中の男をバカにしてるにもほどがある。
なぜ男性は繊細さがなくて、たいしたことができないというような表現ができるのだろうか?
ぼくは全然納得していない。
怒りすら感じていて、どこに抗議してやろうかとネットを調べ回っている。
男だって繊細でオシャレですてきな料理作れるし、めちゃめちゃ映えてるからみてほしいし、あがめてくれたまえ。
口だけだと思われても嫌なので、証明しようと思う。
オリジナルレシピです!
みなさんもやってみてね!
「これがホントの男飯 繊細すぎる旨ラーメン改」
〜まず、材料から〜
小松菜 1かたまり
なんかきのこ 1つ
謎の肉 ある分だけ
スーパーに売ってるラーメンの生麺とスープがついてるやつ 1袋
〜つくり方〜
鍋にお水を適当に入れ、火にかけて乾いた昆布を入れてダシをとります。
いい感じになってきたと思ったら、包丁とまな板がないので、小松菜を水で洗ったあと、手でちぎります。
ちぎった小松菜はダシをとっている鍋の中にぶちこんでください。
なんかきのこも手でちぎって、いいタイミングで入れて、もうそろそろだと思ったら麺を入れてください。
生麺はだいたいどれも2分ぐらいでいい感じになるので、気をつけましょう。
※注意!説明書は必ず読まずに捨てましょう。
あまりにも集中していたため、写真を撮るのを忘れていました(笑)
麺を入れて1分が経ったら、肉を入れてください。
⭐︎ワンポイントアドバイス⭐︎
500mlくらいのお湯を別で沸かしておきましょう!
また1分経ったら、すべての食材が入ったお鍋をザルにあげて、湯切りをしたあと、昆布だけを取り除いてください。
あくが出てると思うので、沸かしたお湯をザルのまま食材にかけて、あくをとると同時に、スープの入った袋にもお湯をかけ、温めましょう。
お湯とスープと食材ぜんぶどんぶりに入れたら完成です!!
だれのためにいきる
だれのために怒り
だれのために泣く
だれのために喜び
だれのために笑うのか
じぶんのため?
それもまた、むつかしい。
ちゅうよう
【中庸】
極端な行き方をせず穏当なこと。片寄らず中正なこと。
中庸でいることが、重要?
ぽぉんと心がはねて、パズルのピースがカチッとはまるみたいに、期待をやめてしまう。
だれのために何を書いているのかと問われれば、じぶんの気持ちを整える。ただそれだけのために書いている。
スイッチが切れてしまったじぶんの心と、今まで散々言われてきた言葉の意味と、じぶんの今までの行動の意味みたいなのも少しわかって、感情がぐちゃぐちゃする。
わかり合おうとするのがそもそもの間違いで、相手をわかろうとしなければいけないのかもしれない。
わかってもらおうと考えることが意味のないこと。
友だちとパートナーの違いは、友だちのことは知りたいと思って、パートナーには知ってもらいたいと思う。
それだけなのかもしれない。
ぐだぐだ考えるのはこの辺にして、もっと世界をシンプルにみなければ。
(人間関係においては)なぜを突き詰めるのをやめ、より感覚的にいきてみる。
言葉をこねくり回すのも、無理にわかり合おうとするのもあまり意味はないのだと、そう思い始めている。
中庸を心がける。
出ないと心が壊れてしまう。
好きか、嫌いか。
会いたいか、会いたくないか。
それだけでいい。
この考えが結局ぐるぐるしていて変わっていないじゃないかと思うかもしれないけれど、ぼくにとっては一つ大事な発見があった。
わかり合えなくていい。
わかり合おうとしなくていい。
おかげでいきるのは少し楽になったけれど、寂しさも感じている。
その寂しさはだれのためでもなく、じぶんのためのものにちがいなかった。
世界はうそに満ちている
世界はうそに満ちている。
よくわからない感情であふれている。
ぼくの腰にも届かない小さな子どもが、高い高い空を見上げて、にへらっと心底幸せそうに笑う。
とうとい。
それだけで、それだけなのに、どんな感情かもわからず、泣きそうになった。
心とからだが切り離されていく、冷たい感覚。
周りにはたくさん人がいて、じぶんも笑っているはずなのに、急にそんなじぶんの姿を俯瞰して、遠くから見ている気分になる。
あ、じぶんって一人じゃん。
ふと気づいた事実に、驚くほど心が静かになった。
満たされない気持ち。
よくわからない焦り。
人との繋がりが感じられない。
だれのことも信じられなくて、もうぜんぶやめたくなる。
うそつき。
white lienoun
a harmless or trivial lie, especially one told to avoid hurting someone's feelings.白い嘘
名詞
害のない、またはとるにたらないうそ。とくにだれかの気持ちを傷つけないようにつくものを言う。
うそつき。
だれのこともすべて信じる必要はなくて、うのみにするのをやめてみる。
人との繋がりは、たまに会ったときとか、ちょっとした言葉とかでふと気づくものだから、常に感じなくてもいい。
周りと比べるからこその焦り。
他人では満たされない気持ち。
ふと気づいた事実に、驚くほど心が静かになった。
あ、みんな一人じゃん。
周りにはたくさんの人がいるけれど、だれだって完璧ではいられなくて、足りない気持ちを感じながら今日も生きている。
心とからだが切り離されていく、冷たい感覚。
夏の朝に気持ちいいその冷たさを感じながら、ベランダ越しにみえる高い高い空を見上げて、にへらっと心底幸せそうに笑ってみる。
とうとい。
どんな感情かもわからず、泣きそうになった。
よくわからない感情であふれている。
世界は優しいうそに満ちている。
しゃべるとしぬぞ
口は災いのもと。
人の口に戸はたてられないと言うけれど、じぶんの口くらいにはしっかり戸をたててあげないと、痛い目いっぱいみちゃうんだろうなあというのが最近生きててじぶん自身のしみじみとした実感です。
結構しんどいことが起こった。
すごい疲れちゃったけど、ネガティブにぐるぐるしそうになったけど、それも嫌だから、ポジティブな誓いをたてました。
最後だけ無駄にハイテンションになるけど、許してね!!
伝言ゲームなんて絶対うまくいかない。
こっちの意図した意味で伝わることはなくて、だから同じように、人の言うことも話半分できかなければいけないのだろう。
女優や俳優が本質的なものであるなあと、ふと思った。
人は生きていく上で、演じ続けなければいけないのだと思う。
思ってることをだだ漏れにしてしゃべってはだめだし、どんな言葉を拾われて拡大解釈されるかもわからない。
「あいつお前のこと◯◯って言ってたよ」
とか、悪意のない悪意のせいによって、じぶんのあずかり知らぬところで拡がってしまうことがある。
また、じぶん自身がそんなしよーのない人間になるのも、人としての質が下がりそうでなんか嫌だ。
でもやっぱり、人の話をするのが何よりも面白い。
あいつはこーだ、あーだこーだと好き勝手言うのって、てきとうで、むだで、だからこそ面白いのだと思う。
共感は居心地がいい。
一番身近でえられる共感ってのが共通のにんげんについてで、だからうわさ話はなくならないんだ。
「あいつこういうところあるよなー」とか「こんなことがあった」とか、しゃべっていいのは根本的にじぶんの味方でいてくれる人だけなのだと思う。
じゃないと、秘めた悪意によって、拡大解釈された「こんなことがあった」が巡っていって、最終的にじぶんがヤラれてしまう。
だから人間には、パートナーが必要なのだと思う。
じぶんの話したことを悪意でねじまげない人が必要なんだ。
けんかじゃないから敵とか味方とかはないのだけれど、結局人が二人いたら、どちらかに少しは寄らなければいけないのだと思う。
意見を寄せるのではなく、心を寄せる。またはどちらからも離れる。
じぶんは一人しかいないのだから、同時に違う場所には立てない。
こんな簡単なこと、なんで今までぼくは気づかなかったのだろう?
とにかく、だれが悪いとかではなくて、しゃべると巡り巡ってじぶんがしぬんだなあ、という実感がいまさらながら、あらためて強くある。
なので、ここに誓います。
寡黙な男になる!!!!!
ぼくの今年の漢字はこれで決まりですね!
Oculus Questはコミュニケーションを変える
VRはコミュニケーションを変えるって思いました。
Beat SaberというVRの音楽ゲームは、言わずもがな、一番有名なやつで、やはりすごかった。
ライトセーバーにそっくりなやつを振り回して、もうじぶんが世界で一番かっこいいジェダイなんじゃないかって思いながら気持ちよくぶんぶんできる。
ただ、さぞかしかっこいいんだろうなあと思って、プレイ中のじぶんの動画を撮ってみたら、予想以上にダサすぎてふと我に返った。
BoxVRは、ボクシングゲームというか、もはや完全に運動に近い。
20分やったらもう腕はまったく上がらなくなって、汗だくで、正直ぶったおれるかと思った。
Beat Saberも運動になるんだけれど、このBoxVRはどこかのサイトでワークアウトappとして紹介されるだけあって、運動量が全然違う。
やせたいなら絶対にやるべき。たぶんぼくはこの調子だと激ヤセしてしまう。いや、その前に筋肉つくか。
最近は(といってもまだ3日間だけだけど)この2つをやりすぎて、毎日筋肉痛である。
最後はこちらEleven Table Tennis VR
本当にリアルな卓球ができるゲーム。
オンラインでぼっこぼっこにされた人に、これずっとやってたら現実の卓球もうまくなるよって言われた。
実際、ぼくはニュージーランドのホストファミリーの家に卓球台があったため、毎日のようにホストブラザーと卓球をして遊んでいたのだけれど、本当にこのゲームは卓球そのものだと思った。
最初はちょっと映像が古臭くてしょぼいなあとか思っていたのだけれど、オンライン対戦で知らない人と戦ったら考え方が180度変わった。
めちゃめちゃ面白い。
すごく白熱して、これも大汗をかいた。
しかもプレイ中は対戦相手と会話もできて、なんだか仲良くなって、友だちになった。
卓球のラケットとそうじゃない方の手と、頭につけたヘッドセットが表示されて、その中でのジェスチャーや、お互いの負けたときの感情の出し方なんかもわかったりして、そのコミュニケーションの形が存外に面白かった。
卓球をぽんぽんとしながら、顔も知らない人とちょっとした会話を続けるのは不思議で、ただ、声以外の情報(腕と頭は見えるから)、頭を抱えたり、ちょっと待ってって合図したり、今のナイスショットだね、みたいなのも表現できたりして、すごくすごく興味深かった。
こんな新しい関わり方があるのか、と感動している。