VRは恋とほぼ同じ

Oculus Quest という、去年のたしか今頃くらいに発売されたVRヘッドセットがあって、いまさらながら購入してみたのだけれど、正直予想をはるかに超えて、すばらしいものだった。

 

少しぼくの話をするのだとすると、ぼくは常日頃から

「うまいご飯を食べて、大切な人たちと笑いながら話して、ゆっくり風呂に入って寝る。これほどのぜいたくはこの世に他にないし、これさえできれば何もいらない」

と豪語している。

 

「小さい画面にとらわれて景色を見逃してしまうくらいなら、スマホは旅先では捨ててしまった方がいい」

とも言っているし、

「東京にはあまりにも新しいサービス、新しい商品が日々生まれすぎていて、人間が豊かに暮らすのに、本当にそんなものが必要なのかは甚だ疑問だ」

と口を酸っぱくして述べている。

 

ただ、ぼくの暮らしぶりはその主張の真逆をいくようなものばかりで、友人にはよく、

「お前だけは言ってはいけない

とたしなめられる。

 

たしかにぼくは旅行中、いつもスマホを肌身離さず持っているし、なんなら多くの時間スマホを注視している。

東京で暮らして、世の中にあるいろんなサービスを享受して、今日もぼくは便利に生きている。

 

きっと生まれるのが10年早ければ、ぼくの生き方や人との関わり方も大きく変わっていただろう。

 それくらい、ぼくは技術的な豊かさの中で暮らしている。

ただ、本質的にはこれらが必要不可欠であるわけではないという主張は、今も変わらない。

正直なくたって構わないのだけれど、あるのであれば使わない手はないし、使った上で批判をしたいとぼくは思っていた。

 

ただ、やはり新しいものが好きには違いないのである。

なんでこんなに新しいものが好きなのかと言われれば、新しいモノが今までにないコミュニケーションの形をつくるであろう予感に、興奮をおぼえるからだった。

 

オキュラスクエストというVRの機械は、いろいろと特徴がある、1年経った今でもかなり新しいものなのだけれど、その説明はグーグルさんにおまかせして、実際に使って感動した点を述べていきたいと思う。

一応簡単にだけ説明すると、オキュラスクエストはパソコンやスマホのいらない、完全に独立した機械であり、そのために邪魔なコードとかが必要ないため、VRヘッドセットをつけたまま踊り放題、飛び跳ね放題、走り回り放題という特徴がある。

そして従来のVRの多くは、頭を動かすと視界も同時に動くだけだったの対して、オキュラスクエストはしゃがんだり、歩き回ったりすると、VRの映像の中でもきちんとそう認識されるため、あたかもホンモノと錯覚してしまうぐらいのリアリティがあるのだ。

 

奥行きや高低差を認識できるから、もし寝ていてVRをつけたまま目を覚ましたら、起き上がってもきちんと視界として起き上がっている感があるから、VR空間の中にいることがわからない。

実際には画質の問題とか、頭にかぶるときの違和感とかでVRだとわからないわけはない。

なのだけれど、リアリティは存分にあって、このVRのすごさみたいなのは、ぼく自身体験してみないとわからなかった。

 

VRを実際に体験して、出てきた感情にぼくは戸惑いが隠せなくて、なんでなのかを考えた。

最初はあまりにも新鮮で興奮してきて、とにかくもっと知りたいと思っていろんなことをして、そのうちどっぷり浸かりすぎてしんどくなって、でもやめたくなくて続けてくうちに、VR世界内でものをとろうとして"本当は存在しない”ことに気づかず、転んでヘッドセットが頭から外れて、ぐっと現実世界に引き戻される。

 

何かと似てるなあ、というかほぼ同じだとか思いながら、ぼくは目を閉じた。

軽くて薄くて重い

ぼくの人との関わり方をこうたろう(仮名)にベーゴマみたいだと例えられたことがある。

 

ぐるぐる回って、最初はとんとんっ、と軽くぶつかって何回かくっついたり離れたりを繰り返しながら、ある一定の段階でばちん!とぶつかってはじけて、どこか遠くへいってしまう。

 

なるほどなあ、と思った。

 

こうたろうは続けて、

「ようすけは軽くて薄くて重いんだ」

と言っていて、そっかあとぼくは返した。

 

軽くて薄い。

たしかにぼくは、よく軽薄だと言われることがある。

人との最初の、とっかかりの関わり方がラフで、「まあ仲良くしよ!」みたいなスタンスでいて、とにかく仲良くする人は多ければ多いほどいいと思っているから、たしかに軽いのは間違いないのかもしれない。

 

ぼくの言葉は薄い。

言葉を大事に使わないで、たくさんしゃべって、とにかく量でせめたてることがあって、そこに質量を伴わないから、薄っぺらいなあと思われることがある。

ばーーーーって言葉が次から次へと出てくるぶん、本当らしさがなくて、重みがなくて、それっぽいことばかり言うのが得意になってしまったから、こいつはないがしろにしていい人間なんだと思われることが多くなった気がする。

 

そしてぼくは重い。

人と一度関わるとしつこくて、考えすぎて、もっと深くなろうとしてきて、その関わり方がどんどん重くなってくる。

 

この軽くて薄口のカルピスなら毎日飲んでも別にいいわ〜、おいしい〜って思っていたのに、じょじょに濃い目になっていって、気づいたときには口当たりが重すぎて、

「飽きた、こんな濃いカルピスもう飲みたくない」

ってなるような感じなのだろう。

 

軽くて薄くて重い。

この矛盾を抱えたまま、ぼくは生き続けている。

 

ややこしくてしかたがなくて、めんどくさくてたまらない。

一緒にいると、たぶん疲れてしまうのだと思う。

その落差に、どんどんしんどくなってしまう。

 

そうしてぐるぐると回ったべーコマは、互いにぶつかりあって、はじかれて、とまる。

ベーゴマとはなんとも的確な表現だなあ、とぼくは思った。

 

ぼくはだれかを、傷つけたくてたまらないのかもしれない。

ぐるぐると回り続けて、はじきとばして。

 

人の感情が好き。

その気持ちがきっと、いびつな形をしていて、ぼくを軽くて薄くて、そして重くしてしまっているのかもしれない。

 

関わりたいと思えば思うほど、心の難しさにふれて、どうしようもなく苦しくて、うれしくて、悩めることにまた、喜びを見出しているのかもしれなかった。

たまに泣きたくなるのは、気の所為なのかもしれなかった。

 

ぼくと関わってくれる人には、これからもこの矛盾に付き合わせて、しんどい思いをさせるだろう。

だから先に言っておこうと思う。

 

海よりも深い、ごめん。

そして宇宙よりも広い、ありがとう。

 

あじがどう。

 

 

半沢直樹とは友だちになりたくない

 

「倍返しだ!」

のフレーズが流行り、半沢直樹が世の中で盛り上がりを見せていたのはたしか、5年くらい前だった気がする。

ぼくはドラマを見る習慣がないので、半沢直樹も見ていなかったのだけれど、大学の山岳部の高尾山に登る体験みたいなのについていったことがあって、そこで知り合った子に半沢直樹の原作小説である「オレたちバブル入行組」を勧められて読んだことがあった。

 

ドラマのワンシーンとして、半沢直樹がキレているところは見たことがあって、実際に「倍返し」のフレーズも小説には出てきた。

正直、ストーリーとしての痛快さや面白さよりも、言いようのない疲れが残る読了感だった。

だって、なんかずっと怒ってるんだもん。

そんな怒らなくても良くない?

と思ってしまった。

 

ストーリーは深く覚えてはいない。

怒るだけの正当な理由も、正義もあるのかもしれないけれど(これはスカッとジャパン?という名前のバラエティ番組にも言えるけれど)、怒る理由があるから怒っていいのかと言えば、それは違うとぼくは思っている。

これは一意見だから、怒りたい人は怒ればいいし、ぼくだってこんなことを言っておいて怒っていることがあるかもしれない。

 

でも、怒ることを正当化したことはないなあ、とじぶんをかえりみて思う。

あなたのためを思って、とか、オレは侮辱されてもいいけどオレの大切な人を侮辱することは許さない、とか。

ずるいなあ、と勝手ながら思ってしまう。

 

怒りの感情が出てしまうのは百歩譲らなくてもしょうがない。

感情は生まれてしまう、だれも仏にはなれないのだから、感情をなかったものにする必要はないのだと思う。

 

怒りの感情って、正しさも理由もくそもなにもない。

あなたが、じぶん自身で、怒りをあらわにしているだけで、それを人にぶつけて良いわけがない。

 

というか、どんな感情であったとしても、正しさはないのだと思う。

じぶんの感情を人のせいにするのって、都合が良すぎる。

戦うことが好きじゃない(もっと他に方法がある)と思っているぼくからすれば、事実ベースで戦う(この網に玉が入れば一点、などのルールに則ったもの、スポーツとか)のであればまだいいのだけれど、感情を武器にしてだれかを屈服させようというのはいかがなものかと思っている。

(かくいうぼくも議論という名の戦いが白熱すると、徐々に大きな声になって、感情で威圧しようとすることがあるから気をつけなければなるまい)

 

だれかのためを想って怒るような人よりも、だれかのためを想って泣ける人のそばにいたい。

だって疲れちゃうから。

 

泣いてる人って、泣いた瞬間に、周りの人にどう思われているかを気にして、めんどくさいって思われたくないなって思うと思うのだけれど、ぼくは個人的には、すごく好き。

上品な感情の発露が、どんな星よりもとてもきれいだなあと思うから。

 

まあ目の前で泣いている人がいても、何もできないのだけれど。

かける言葉が思いつかなくて、ぼくは立ち尽くす。

 

悲しみの感情は、夜と朝の境界線をまたぐ空に似ている。

涙の余韻を残しながら、懸命に笑おうとするその姿が、この世の中で最も引きずられる感情だ。

ぼくは境界線の外側からのぼってきた太陽を見て、あまりにもまぶしすぎて、涙をながす。

なんだか悲しくて、たまらなかった。

でもその感情を、大切にしたいと思った。

働くことの好きなとこ

今ぼくが働いている会社は、労働時間こそ長くなりがちなものの、やりたいことをやらせてもらえているという点ではかなりホワイトですてきな職場だと思っている。

 

会社の話をすると、ようすけには合ってる環境だよね、お前がそこにいる理由がよくわかると言われて、あまりふに落ちていなかったのだけれど、毎日働いていく中で改めて、好きなところを言語化できるようになってきた。

 

何十人といない小さな会社で、日々営業戦略をみんなで考えたり、企画会議したり、とにかく無駄が多い(というと語弊がある)というか、方向性がばらばらというか、どうにかみんなが同じ方向をみようと必死なんだ。

答えのない答えを探している。

新しい価値観っていう、言葉にするととても曖昧なものを本気で探してて、その話し合いにぼくも参加させてもらえて、営業も企画もディレクションも取材も編集も撮影も雑用もなんでもやらせてもらえるこの今の環境がすごく好き。

 

答えのでない議論ばかりで疲れそうな気もするけれど、ぼくとしては世の中に投げかける「これってちがくね?」とか、「なんで当たり前だと思ってるの?」みたいな問いかけがめちゃめちゃ好きで、じぶんたち自身も常に自問自答しながら、言葉や価値の定義づけを行おうとすることが、すごい豊かだなあと思っている。


今働いていて不満は何一つないけれど、焦りがあるとすれば、それは学びが能動的なところ。

 

やりたいです、と言えばやらせてくれるし、会議とかにも快く参加させてくれるのだけれど、上司がめちゃめちゃ穏やかで優しいため、プレッシャーもなければ課題もない。


周りの新社会人はみんなすごい必死にがんばってて、日々インプットを多くしてるのだけれど、ぼくはアウトプットの方が多くて、知識として取り入れて勉強してるっていう感覚があまりないし、働いていてつらいと思ったことも一度もない、いわゆる少し甘い環境にいるのかもしれなかった。

 

ただ、多くの新社会人にとっての一側面のインプットは、ある程度自社に最適化された知識だったり技術になったりするところはあるのかもしれない。

もちろんだれもその勉強が無駄になるとは思っていないだろうけれど、そこの価値はみんなが思っているよりも高いものなのではないかとぼくは思っている。

 

じぶんが心から覚えたいと思っているわけではない知識を死にものぐるいで勉強してるっていう事実が、すごい尊敬できることだし、大きな力になると思った。


だからといってぼくがそれをやりたいかは別の問題なのだけれど。

 

でも本当に、そんな風にみんなががんばってるっていうのがわかるだけで、じぶんもがんばろうと思えた。

 

これが今実際に苦しんでいる当事者たちにとって、どのように捉えられてしまうのかがわからないから、少しセンシティブな話でもあるから、あまり物申すべきではないのだろうけれど。

 

ぼくはあなたたちを心からすごいと思って、尊敬しています。

毎日やめたいと思っていても、就活のときとのじぶんのモチベーションのギャップに苦しんでいるのだとしても、仕事行くのがつらいと思っていたとしても、具合が悪くなって休んだのだとしても、会社をやめたのだとしても。

えらいです。

すごいです。

働くだけですごい。

働こうとしてるだけでえらい。

 

だから本当に、大げさかもしれないけれど、死にたいと思ったら連絡してほしい。

ぼくは褒めることと、声をきいてあげることと、そばにいることしかできないけれど。

 

本当に絶対死なないでほしい。

 

あなたはえらい。がんばった。

 

毎日会社にいっているあなたも尊敬してすばらしくてめちゃめちゃすてきだけど、失敗ばかりでもきちんと働いているだけでとてもすごいこと。

 

会社をやめたあなたも、今まですごくがんばったからえらい。耐えて耐えて、がんばったのだから、今こうして家にいるのも、じぶんの心もからだも休めるためにすばらしいことだ。

 

みんなえらいなあ。

生きてるだけでえらい。

いやもっと死ぬ気でがんばれよところされる

だんだん仕事というものを知っていって、今日がんばっても明日も明後日も明々後日もあるのかと思って、絶望しそうになる。

 

わたしはこの世で一番ばかなのではないかと思ってきてしまって、思いつめて弱音吐きたくて何もかもがぐちゃぐちゃになってしまう。

迷いながら、苦しながら、それでも時間は進み続けていて、とまることはなくて、一度でいいから、ぜんぶを投げ出して、すべてを忘れてみたいと思う。

 

こんな生活がしたかったのかな、とか。

本当はこうじゃなかったはずなのにな、と漠然と感じた。

ここは私の本当の居場所ではない。

何かが違う。

何もかもが違う。

じぶん自身も違う気がして、空に馴染んだ薄い雲みたいに、じわりと消えてしまいたくなる。

 

そんなとき、ついこぼしてしまった弱音を、拾われてしまった。

 

いや、もっと死ぬ気でがんばれよ

 

違う、違う。

違うんだって。

そんなこと言ってほしいんじゃない。

そんなのわかってるよ。

勉強が足りてない、力が足りてない、頭が足りてない。

弱音なんて吐いてる場合じゃなくて、じぶんで選んで入社したのだから、こんなすぐにくじけちゃだめで、もっとがんばらないといけなくて、そんなことはだれよりも私がわかっていて。

 

たしかに、もっとがんばらなければいけない。

じゃないとおいてかれてばっかりだし、期待にこたえたいし。

今夜勉強しよう、と思っても、もう今日はいいっかな、明日がんばろう、って、楽をしてるのもわかってる。

 

でもさ、しんどいなりにがんばってるんだからさ。

くじけそうで、負けそうなとき、ちょっとでも前に進むために、がんばってるんだよ。

 

だから、今だけは。

 

考えすぎだなんて言わないで。

がんばりが足りないだなんて言わないで。

ぜんぶわかってるから。

 

がんばってるね、えらいね。

その言葉だけでいいから。

 

でもすげえムカついて、知った気になるなって、怒るかもしれない。

でも怒らせて。

 

死ぬ気でがんばれって言われて、どうしようもなく悲しくて空虚な気持ちになるくらいなら、あなたにムカついてしまいたい。

 

私は何者なのか。

働いていると、たまにわからなくなる。

顔の表情と心がちょっとずつ離れていって、あれ、今どんな顔をしているのだろうかと思う。

 

でもきっと、大丈夫。

鏡をみると、じぶんの姿がうつった。

これで鏡に何もうつらなかったら、きっと私は絶望していた。

不安でたまらないはずだ。

でも大丈夫。

私はここにいる。

それは鏡と、本当に大切な人が教えてくれる。

 

私は、だれでもない。

会社の歯車でもなければ、愛想笑いでだれかを気持ちよくさせるロボットでもない。

私は。

私は、私だ。

 

ほかのだれでもない。

私は私である。

それだけを忘れないで。

 

美しさも醜さも

強さも弱さも

 

ぜんぶ、私なんだ。

 

 

 

いっぱい泣いていいよ。そばにいて笑ってあげる

「いっぱい泣いていいよ。そばにいて笑ってあげる」

「なんの歌だそれ」

「おれの歌」

「おえーーー」

 吐く真似をする女の子なんて、エモさのかけらもない。

 キザったらしくて、ほんと無理。なんて、じぶんでクサイせりふを吐いたくせに、心のなかで毒づく。

 

 

 いつも複数人でいるとき、だれかに対して言い過ぎたぼくを見て、彼女はほんのちょっとだけ居心地の悪そうに視線を下に向ける。

 諌めてくれるときもあれば、フォローするときもあるし、黙っているときだってある。

 いつだって空気を呼んでくれているのだろうけれど、「やめなよ」って言ってくれるときが一番好き。

 ぼくは”そう”言われると不満げな顔をするのだけれど、本当は、きちんとこっちを見てくれていることと、思っていることを言ってくれることが、特別に感じられてすごく好きだった。

 

 結婚したいかしたくないかで言えばめっちゃしたいし、好きか嫌いかで言えば大好き。

 でもほかの人への感情と、はたして違いはあるのだろうか?

 

 ぼくはよく、人の好きなところを見つける。

 ほしいなあって思ったり、好きだなあって思ったりして、たまらなくどきどきすることがある。

 もっともっと近づいて、その人のことを知っていって、好きなところも嫌いなところも見つけて、最後にはいつも感情がぶつかって、必ず言い争いになる。

 

 結局そのとき一番長いこと一緒にいる人のことを、ぼくは好きになっているのかもしれなかった。

 恋愛ってしょーもな。

 というか、じぶんしょーもな。

 

 一緒にいればいるほど、その人の好きなとこも嫌いなとこも増えて、その人間らしさがたまらなく好きになってしまう。

 

 だから今だって、一緒にいるから、過ごす時間が長いから、この人しかいないと思ってしまっているだけで、本当はいつもどおり、だれでもいいに決まっている。

 

 いつだってぼくは、なんて特別なのだろう、今までこんな人会ったことない、と思うことができている。

 

 彼女と一緒に過ごして、お互いの大切な人を紹介しあって、家族と会って、今までこんなにも人間関係が広がることはなくて、それを面白がってくれるのが嬉しかった。

 だれよりも人のことが好きで、それ以上に人のことをすごくすごく大切に感じていて、そしてどうすれば大切な人たちを大切にできるのかを考えて、丁寧に形にしてしまえる真摯さがある、そんな彼女を、何よりも一人の人間として、大切にしたいとぼくは思った。

 

 今日年上の人に、「そもそも付き合う必要あるのか?」ってきかれた。

 付き合うってなんだ?

 付き合ってなくたって、家族に紹介することや家に行くこと、二人で遊ぶことだってできる。

 付き合うという行為は、より深い心や身体の繋がりのことを言うもので、友達とパートナーとは決定的な違いがあるはずだ。

 それは、心の結びつきがある友達とはセックスをしないことなのだとぼくは思う。

 いつだってセフレは、わかりあえていないようにぼくの目には映っている。

 心で繋がれないからこそ、身体という選択肢をとる。

 

 だれかを好きになってもっと近づきたいと思ったとき、心で繋がりたいのか、身体で繋がりたいのか、その両方なのかの3つがある。

 ただ、心と身体の2つは、互いにくっついたり離れたり、混じり合ってわかれる。

 どっちなのかがじぶんでもわからなくて、心で繋がろうとしているはずなのに身体での繋がりと混濁して相手を傷つけて後悔したり、逆に身体での繋がりを心のものと勘違いして、さめてしまうことがある。

 

 というか、そもそも人間は、たぶん、じぶんが相手に対して求めているのが心の繋がりなのか身体の繋がりなのかを、認識する器官を持ち合わせていないのだ。

 だから性というものがあって、性の違いが自動的に心の繋がりなのか身体の繋がりなのかを識別して、後世に遺伝子を残してきたのかもしれない。

 

 最初から、女の子と心だけの繋がりを持とうとすることが間違いなのかもしれない。

 

 大切にしたいと強く思って、心の繋がりを強くしたいと思えば思うほど、ぼくらの頭は身体の繋がりとごっちゃにして、きっと傷つけてしまう。

 

 じぶんのしょうもなさに吐き気をもよおして気持ち悪くなりながら、この好きはどんな好きなんだろうって考えている。

 

 きっと同じことの繰り返しで、永遠のループ。

 

 怖がりで、勇気があって、人との関わりを考えすぎてて、真摯に人を大切にできて、めんどくさくて、意味わからない謎のダンスをすることがあって、真っ白じゃない手がきれいで、変なところで行動力があって、たまに何してるのか理解できなくて不安になって、だれかを想って泣くその横顔がとてもきれいな、そんな大切な人。

 

 もっともっと、心で繋がりたいなあと思う。彼女と一緒に、もっといろんな人との出会いを楽しんで、大切にして、考えて、だれでもないじぶんのせいにしてしまいたいなあと思う。

 彼女が泣いていたら、ぼくは一緒には泣かない。

 しょうもなくなって、涙が引っ込んでしまうくらいなら、そばにいてバカみたいにわっはっはって笑ってあげて、悔しくなってもっと泣いてしまえばいい。

 

 だってすぐ涙をとめてしまうんだもの。

 いつもいつも大人ぶるのは勝手だけれど、たまには思いっきり子ども扱いされて、もっと怒ったり泣いたりしてしまえばいいんだ。

 

 ぼくにできるのはそれくらい。

 笑ってやれる、そんな存在になる。

悪口みたいなものじゃない

最近、友達と二人で話すときに、

「あいつはこういう人間だ」

と言い切ってしまうことがよくある。

 

悪口のつもりはないのだけれど、勝手にその人を分析して、知ったような口をきいて、こんな人間なのだろうなあ、と言ってしまっている。

 

「あいつはずっと前から全然変わってない、家にいて、テキトーに文句言って過ごして、そのままダラダラ30歳になるんだろうなあ」

「お前あいつに失望してるんじゃん笑」

「うーん、もっと面白いやつだと思ってた」

とか。

 

「モテるのとかどうでもよくなったからあんな太ったのかな」

「もう今の状況で満足してるんだろうね」

とか。

 

「いい人だし、めちゃめちゃ優しいし、すごい親切心でやってくれるのはわかるんだけど」

「親切だと思ってやってることがあまり嬉しくないことをわからずに、良いことをしてると思ってゴリ押してくるタイプの人間だよね」

とか。

 

当の本人にきかれたら角が立つものばかり。

じぶんは何様なのだろうか、と思うことがある。

いや、言っているのは誰でもなくぼく自身なのだけれど。

 

勝手に期待して、勝手に失望して、勝手に知った気になって。

あいつはこういう人間なんだ、って決めつけている。

 

言うなら本人に言えよって感じだけれど、本人に言えないのなら誰にも言うなよって感じ。

じぶんで言って、じぶんでちょっと自己嫌悪して具合が悪くなっているのって、ぼくはばかすぎるな。

 

なんでちょっと気持ち悪くなるのかなあって思って、時間をとって考えてみて、結論にいたった。

二人で会話して、その中で他者を分析しているのだけれど、この好き勝手話している二人同士が、お互いの分析、本音を話しきっていないから具合が悪いのかもしれない。

 

ぼくが敬愛してやまないけいのさん(仮名)はその点、ずばっと目の前の人をどう思っているのかを、一見乱暴でいて、実は丁寧な言葉で表してくれる。

ただ、彼女は例えば黄色と赤色を同じ色だと言ってしまうみたいに、言葉を雑に使うところがある。

同じ色じゃないです、黄色は止まれるなら止まれ。赤色は絶対に止まらなきゃいけません。

 

けいのさんは以前、あおた(仮名)が言っていた、たけうちくんの恋愛語りをきくのは「時間がもったいない」というセリフを、たけうちくんの恋愛語りをきくのは「無駄」って言ってたよ、とぼくに伝えてきたことがある。

けいのさんはどっちも同じ意味じゃん、と言っていたのだけれど、だいぶニュアンス違う。

うんこ味のカレーとカレー味のうんこと同じくらい違う。うんこかカレーかって、排泄物か食べ物かってことだからね?

あおたに「無駄」と言われたのだと思って、強い言葉だから少なからず落ち込んでいたのだけれど、「時間がもったいない」と言っていたのだとわかって、それは間違いないと思ったのと同時に、ほっとした。

 

こういうニュアンスをけいのさんは省きがちで、それが原因で周りの人間ともめたことが何度かある、って言うとおおげさだな悪口みたいだやめとこう。

 

 

お互いの本音の部分をきちんと話せば、少しは楽になるのかもしれない。

誰かを「こういう人間なんだ」って言うのって、根本的にずるいんだ。その場にいない人のことだから、反論をさせてはくれないから。

なんだか逃げてる感じがして、いやらしい感じがして、気持ち悪くなる。

でもやっぱり、言いたくなるし、これからも言い続けるだろう。あいつはああいう人間だと思う、って。

 

そのずるさをやわらげるために、きちんと向き合うことが必要なのだとぼくは思った。

今目の前にいる人をどう思っているのかを、きれいごとで終わらせない言葉で伝えたい。

 

その人の行動や言動を、じぶんがどう捉えているのか。

じぶんの行動や言動を、その人はどう捉えているのか。

 

もっともっと、丁寧に、逃げずに言葉にできたらいいなあと思う。