きものはえっちという話
あるきっかけがあって、じぶんにとってきものとは何なのかを考えなければいけなくなった。
きものって、すごく美しい。
着姿もそうだけれど、きものによって制限される行動の一つ一つが、所作をきれいにさせているように思う。
きものには、品と、美しさと、日本人としてのアイデンティティがつまっている。とぼくは思っている。
夏は浴衣を着る人が増えて、とても涼しげだ。
ぼくは着衣が好きなので、つい目で追ってしまって、いいなあ、きれいだなあとか思ったりする。
とくに首元の衿の部分、抜きと呼ばれるあの隙間がすごく好きだ。
首筋がきれいに見えて、うなじが強調されて、髪の美しさも感じられて、とてもすてき。
ぼくがきものをこれほどまでに好きになったきっかけは、数年前にさかのぼる。
ということはなく。
とくに理由があるわけではなかった。
何か浸れるような、エモい思い出があるのかと言われれば、そんなこともなかった。
きものを着たあの子と会ったけれど、その夜はとてもよく覚えているけれど、その後何かあったかと言うとそういうわけではない、という物語もなかった。
ただただ、美しいと感じる。
品を感じる。
ぼくは昔から下品なものが好きではないことが多くて、とくに人の目もはばからず品のないことをする人が少し苦手だと感じていた。
露出度の高い服とかって、ドキッとして、かわいいなあとか思うこともあるけれど、外であまりにも肌が見えていると、品はあまりないなあと思ってしまう。
品とは、奥ゆかしさであったり、つつましさであったり、強調しないことであったりするのだと思う。
日本には、品があふれている。
ぼくは、きものが好きだ。
きっとそれは、ぼくの日本人としてのアイデンティティのせいかもしれなかった。
水着の女の子が見たいかと言われれば、見たいに違いない。
ただ、街を歩いて、道行く人とすれちがって、どんな景色がいいのかなあって考えたとき、水着の女の子は嫌だなあと思う。
すごい扇情的な服を着たお姉さんも、つい三度見くらいしてしまうとは思うけれど、そんな人ばかりがいても、たいしてうれしくない。
きものの服の人が歩いている。それって、ぼくにとってはとてもすてきだ。
背筋一つ、動き一つが、制限された中で、奥ゆかしく、つつましく、品があって、美しいのだと思う。
そんな品のある美しいきもの姿の人が、日常の中に増えてくれれば、この上なくよいに違いない。
エロい、って言うと、急に俗っぽい。
エッチも、なんだかちょっと品がない。
えっちと言えば、ひらがなの持つ優しさやていねいさも相まって、品が出てくるような気がしてくる。
きもの=品がある
えっち=品がある
つまり、きものはえっちなのである。
きものはぼくにとって、えっちという話