半沢直樹とは友だちになりたくない

 

「倍返しだ!」

のフレーズが流行り、半沢直樹が世の中で盛り上がりを見せていたのはたしか、5年くらい前だった気がする。

ぼくはドラマを見る習慣がないので、半沢直樹も見ていなかったのだけれど、大学の山岳部の高尾山に登る体験みたいなのについていったことがあって、そこで知り合った子に半沢直樹の原作小説である「オレたちバブル入行組」を勧められて読んだことがあった。

 

ドラマのワンシーンとして、半沢直樹がキレているところは見たことがあって、実際に「倍返し」のフレーズも小説には出てきた。

正直、ストーリーとしての痛快さや面白さよりも、言いようのない疲れが残る読了感だった。

だって、なんかずっと怒ってるんだもん。

そんな怒らなくても良くない?

と思ってしまった。

 

ストーリーは深く覚えてはいない。

怒るだけの正当な理由も、正義もあるのかもしれないけれど(これはスカッとジャパン?という名前のバラエティ番組にも言えるけれど)、怒る理由があるから怒っていいのかと言えば、それは違うとぼくは思っている。

これは一意見だから、怒りたい人は怒ればいいし、ぼくだってこんなことを言っておいて怒っていることがあるかもしれない。

 

でも、怒ることを正当化したことはないなあ、とじぶんをかえりみて思う。

あなたのためを思って、とか、オレは侮辱されてもいいけどオレの大切な人を侮辱することは許さない、とか。

ずるいなあ、と勝手ながら思ってしまう。

 

怒りの感情が出てしまうのは百歩譲らなくてもしょうがない。

感情は生まれてしまう、だれも仏にはなれないのだから、感情をなかったものにする必要はないのだと思う。

 

怒りの感情って、正しさも理由もくそもなにもない。

あなたが、じぶん自身で、怒りをあらわにしているだけで、それを人にぶつけて良いわけがない。

 

というか、どんな感情であったとしても、正しさはないのだと思う。

じぶんの感情を人のせいにするのって、都合が良すぎる。

戦うことが好きじゃない(もっと他に方法がある)と思っているぼくからすれば、事実ベースで戦う(この網に玉が入れば一点、などのルールに則ったもの、スポーツとか)のであればまだいいのだけれど、感情を武器にしてだれかを屈服させようというのはいかがなものかと思っている。

(かくいうぼくも議論という名の戦いが白熱すると、徐々に大きな声になって、感情で威圧しようとすることがあるから気をつけなければなるまい)

 

だれかのためを想って怒るような人よりも、だれかのためを想って泣ける人のそばにいたい。

だって疲れちゃうから。

 

泣いてる人って、泣いた瞬間に、周りの人にどう思われているかを気にして、めんどくさいって思われたくないなって思うと思うのだけれど、ぼくは個人的には、すごく好き。

上品な感情の発露が、どんな星よりもとてもきれいだなあと思うから。

 

まあ目の前で泣いている人がいても、何もできないのだけれど。

かける言葉が思いつかなくて、ぼくは立ち尽くす。

 

悲しみの感情は、夜と朝の境界線をまたぐ空に似ている。

涙の余韻を残しながら、懸命に笑おうとするその姿が、この世の中で最も引きずられる感情だ。

ぼくは境界線の外側からのぼってきた太陽を見て、あまりにもまぶしすぎて、涙をながす。

なんだか悲しくて、たまらなかった。

でもその感情を、大切にしたいと思った。