何者かになりたいんじゃない、本当のじぶんになりたいんだ

じぶんが何者かがわからない。

 

映画や小説の主人公はじぶんが何者かをよく理解している。

何のために生きてるのかも、何をしたいのかも。

最初は迷っていても、物語の最後には見つけてしまえている。

 

物語が終わると、どんな感情でもない「終わったんだなあ」という感慨深いため息がもれる。

感動するよりも先に、終わったことに対する安堵と、心地よい疲労感が体を満たして、息をはかずにはいられないのだ。

 

余韻が終わると、ふと現実に引き戻されて、じぶんはどうだろう、何がしたいのだろうと考えることがある。

何してるんだろうなあ。

ばかみたい。

とか。

たまにネガティブになる。

 

でも、まあいっかって思えた。

 

 

何者かになることに憧れを抱いた。

スポーツ物とか、ジャンプ系の物語は、強いところが好きだ。

やっぱり男の子だなあと思うのは、強い彼らに、何者かになろうとする彼らに、強く憧れるからだった。

がんばって、がんばって、それでも足りなくて、挫折して、また諦めないでがんばる。

 

すごいなあ、かっこいいなあ、熱いなあ、強いなあと思う。

何者かにならなければいけないのだと、強い焦燥感を抱いた。

 

何かを否定して、強くなった気になった。

集団に属して、大きくなった気がした。

人と比べて、勝った気になっていた。

 

 

きっと、じぶん自身が好きじゃなかったのだ。

怒るじぶんも、些細なことで嫉妬するじぶんも、人に理解してもらえないとすねるじぶんも。

なんてつまらない人間なんだろう。

 

つまらないじぶんが嫌いだ。

何者でもないじぶんが嫌い。

 

じぶんじゃあ、じぶんを抱きしめることなんてできないから。

だれかに抱きしめてほしかった。

 

そんな時に出会った物語が、すくってくれたものがある。

じぶん自身を抱きしめることを、教えてくれた。

何者かになろうとするじぶんを、自身を否定しようとするじぶんを優しく受けとめて、ただ本当のじぶんで在ればいいのだと教えてくれたのだった。

 

だから、次はぼくが。

そんな物語に少しでも関わって、だれかを強く抱きしめられるようになりたい。

 

ぐじぐじ考えている場合じゃないぞ、じぶん。