お金がほしいって言う人は愛に飢えている話

お金がほしいって言う人って、愛に飢えているのかなあって思った。

ぼくの想像でしかないのだけれど。

 

お金ってイコールで結びつけると、ありがとうになるのだと思う。

お金=ありがとう

 

ありがとうと言われてうれしくない人はいなくて、みんなだれかにありがとうって言われるために生きているのだと、ぼくは勝手に思っている。

だれかから必要とされること。

どうでもよいわけではなくて、有り難い。

そこに有ることが貴重で、尊いものを、ぼくらはありがたいと感じる。

 

やりがい搾取というのは、この「ありがとう」をいっぱいもらっているのだから、お金はいらないよね。だって、お金=ありがとう、でしょ、というところから生まれる。

お金とありがとうはイコールで結べるのだけれど、お金とありがとうは交換できるものではなくて、お金をあげたからといって必ずしも「ありがとう」がもらえるわけではない。

大事な記念日に一緒に過ごしてくれるのは1万「ありがとう」かもしれないけれど、だからといって1万円をくれれば、一緒に過ごさなくていいのかと言えばそうではなかったりする。

このお金=ありがとうの方程式をうまく使えずに、理解できずに、悩んでしまう人はたくさんいるのではないかなあとぼくは思っている。

 

また、大人の世界は、「ありがとう」と言えばいいわけではなくて、ありがとうを具体的に、多くのモノに変換可能な「お金」に換えて渡してあげるのが、社会を成り立たせるためのルールとなっている。

 

ぼくらが普段ほしい「ありがとう」って、今の便利な世の中のおかげでたいていお金に変換することができる。

ぼくらが普段もらってる「ありがとう」も、お金を渡すことで解決させている。

レストランでは、料理を作ってくれてありがとう。

タクシーでは、家まで送ってくれてありがとう。

美容室では、髪を切ってくれてありがとう。

 

お金=ありがとう

この方程式が無意識のうちに頭の中にあるせいで、人は横柄に、悪い態度をとるようになる。

お金を払っているのだから、じぶんはお客様だぞ。

とか。

お金を払っているのだから、当然。

とか。

 

でもやっぱり、お金とありがとうは相互に変換できるものではない。

お金とありがとうを行ったり来たりさせることってできなくて、「ありがとう」はそれ単体で大きな価値を持っている。

 

ぼくらの生きる理由って、ありがとうを集めるところにあるのだと思う。

だれからも嫌われてよくて、だれからも承認されなくてよいって思ってる人って、いない気がする。

ありがとうって、愛だとぼくは思っている

 

きっとぼくの親は、ぼくが生まれたとき、ただそれだけで、ありがとうって言ったのだと思う。

生まれてきてくれてありがとう。って。

たぶんそれって、愛以外のなにものでもなくて、ぼくらが最初に手に入れた「有り難う」なのだ。

 

お金がほしい人って、ありがとうがほしいのだと思う。

でも、お金以外にありがとうを得る手段がわからずに、ありがとうの数え方がわからないで、お金という数値で測ってしまう。

 

お金を稼ぐ人って、お金を上手に使う。

きっと同じで、

ありがとうを稼ぐ人って、ありがとうを上手に使っている。

 

お金はお金だけでは意味がなくて、ありがとうもありがとうだけでは足りないときがある。

 

お金を払っているとき、ぼくらはありがとうをおざなりにしてはいないだろうか?

ありがとうとお金を交換した気になって、受け取って当然のものとして「有り難い」を扱っていないだろうか。

本当はお金を払っているときにこそ、ありがとうを伝えるべきなのではないだろうか。

今後機械が進歩して、物を買うのもサービスを受けるのも、人が介在しなくなっていく。

そんなとき、ぼくらは本来伝えるはずのありがとうを忘れて、機械的にお金とモノを交換するようになって、そうしたらどんどん人はマヒして、おかしくなってしまう気がする。

 

お金がほしいって言う人は愛に飢えている、というと、少しおおげさかもしれない。

単純に、ありがとうを数値化したいだけなのかもしれない。

お金=ありがとう

けど変換できるわけではない。

 

だからお金がほしいと思う前に、じぶんは何をしたときに、ありがとうって言ってほしいのかを考えてみたら。

それはとてもすてきなのではないかなあと。

そう思う。