希望と人間の価値の話

言葉って、一度発するとじぶんから切り離されるイメージがある。

じぶんがこんな激しい言葉を使うことが信じられなくて、数年後に読み返してびっくりする。

今だったら、人間の価値について、どんなことを思って、何を書くだろう。

 

 

 

あなたにとって希望とは何ですか。あなたはどれほど希望を与えていますか。

あなたは人間の価値についてどのように考えていますか。

 

 

 

希望とは、持つもので与えるもの。

誰かからもらうことを期待するものでも待つものでもない。

 


とくに日本の、この時代に生まれたのなら、なおさら。

希望とは自分の体の内にあるもので、生死のかかっていない私たちからすればそれは誰でも持つことができると思う。

18歳以上の私たちならば、自分で考え、自分で生きることができるから。

希望を抱くのは自分次第で、自分が強く願えば希望は持てる。希望とは、幸福だ。

 

希望とは、未来の幸福に対する期待だと思う。

そういう意味で言うと、私は誰にもどれほども与えてはいないだろうし、そもそも与えることができるかどうかが疑問だ。

だが、今この瞬間に抱く幸福の念も希望と言えるのなら、私はできるだけすべての人がそう思えるように意識して生きているつもりである。

人を肯定するという行為がそれにあたる。

すべて受け入れるつもりなど毛頭ないけれど、その人の意見や考え方、生き方、趣味趣向をまずは肯定し、ひとつのものとして認めることが大事だと私は思う。

 


また、感謝の念を忘れず、言葉にして伝えるよう心がけている。

人に感謝されること、それは私にとっては希望のかたまりみたいなものだ。

だから感謝する。

されて嬉しいことをするということも意識的にやっていることだ。

 


また、他者に認識されることも私には希望である。

だから、日頃から知らぬ人にも(変ではない場合に限るけれど)できるだけ挨拶をするようにきをつけている。

知人ならなおさらで、名前を知っているものや一度会い少しでも話したことがある人には声をかけ、話しをする。

私は笑っている人を見ると自然と楽しい気持ちになるので、そう皆が思うことを願っていつも笑顔でいるようにもしている。

 

 


人間の価値などといった人を順位づけするくだらないものは存在しない。

と言いたいところだが、ひとつあるのだとしたらそれは価値のない人間である。

価値のない人間は存在する。

何も愛せない者は価値がない。愛しているものの数がその人間の価値となるのかもしれないが、たとえ少しのものしか愛していなくても深く広ければよいと思うので、そういった意味での順位づけはできないだろう。

もちろん、より多くのものを愛することができれば、それはより良いことに違いない。

 


ただ、愛しているものがひとつもない者は、どうあろうとも無価値である。何も愛せないということは興味の欠如、誰かの気持ちになって考えることの放棄、生の諦めを意味するのではないだろうか。

そんな人間に、果たして生きる意味、人間としての価値があるのかと言われれば、甚だ疑問である。