モテたすぎる話
あいつイイ男だよね、と言われたい。
他人の目を気にすることとか、八方美人とか。
なんかそれが悪いことかのように言われることが多い気がする。
たしかに、人の顔色ばかり伺って、じぶん自身が苦しくなりすぎているのは、もったいないのかもしれない。
しんどくなってしまって、やめたくって、でも嫌われたくないから、抱え込んでがんばってしまう。
だったらいっそ、嫌われる勇気を持って、じぶんらしくいよう。
そういうことなのかもしれなかった。
ただ、ぼくは人に嫌われたくないし、嫌われないためにじぶんができることがあるなら、やりたいと思う。
できるだけ多くの人に、異性にも同性にも、イイ男だ、と思われたくてしかたがない。
モテたすぎる。
モテるためには何が必要なのか、というのを常日頃考えていて、会う人会う人にきいたり、モテる男になる方法、とかモテる女はここが違う、みたいな本もよく読んだりしている。
誰もが口をそろえて言うことがあるとすれば、それは「余裕」だった。
余裕のある人。
それがモテる人の条件らしい。
視野の広さとか、想像力とか、余白とか、遊びとか、自信とか、懐の深さのことを、余裕と呼ぶのだとぼくは思う。
何か一つに固執することは、視野を狭める。人生の余白を楽しんで、遊びを知っている人の方が、きっと余裕が生まれて、モテるのだろう。
モテるために必要なのは、表面上の優しさではなくて、かゆいところに手が届くような、そんな行いなのだと思う。
たまに親切を押しつけてくる人がいて、その気持ちはうれしいんだけど、いらないなあ、むしろ迷惑だなあと感じてしまうような行為は、モテない。
今この人は、何をしてほしいのだろう、と考える。
帰りたいのか、お腹すいたのか、話をきいてほしいのか、なんなのか。
特別感も、とても大事なのだろう。
いつもは車のドアをあけてくれないけど、ちょっとオシャレなデートのときには車のドアをあけてエスコートしてくれる、とか、荷物を両手に持っていてドアがあけられないとき、さっとあけてくれる、とか。
そういった、やってくれるとちょっとうれしい、みたいなことをやってくれることが大事なのであって、何の考えもなしに、文脈もなくドアをあけられても、いや、じぶんであけられるんだけど…、となるだけだ。
ぼくはそこをはき違えていることが多くて、うわっつらの親切を、ゴリゴリに安い値段で叩き売っている。
気持ちが前へ前へと出てしまっていて、とびだし注意と胸に刻まなければならない。
優しすぎる人って、モテない。
優しすぎる人は、行動が読めてしまうから。
なんて言葉をかけてくるのかも、どんなことをしてくるかも、だいたい全部わかってしまう。
余裕のある人って、いい意味で何を考えているのかわからないのだと思う。
いっぱいいっぱいになってしまっている人は、あぁ、今焦ってるんだなあ、このことで頭がいっぱいなんだろうなあとわかるのだけれど、余裕があって、泰然自若としていて、どっしり構えているような人って、安心感とともに、底知れぬ深さというか、奥行きを感じるのだと思う。
余裕を持つ。
そのために必要な想像力をつけるために、もっと多くのことを知って、会って、経験したい。
モテるために。
どうしたって、モテたすぎる。
ただ、モテたすぎると考えているうちは、モテないよ、と社長に言われた。
じゃあモテたくないです。
これでモテますかね?