出会いは伏線でしかない話

これ、意味あるのかな。って思うことって結構ある気がする。

 

この人に親切にして、意味あるのかな。

今目の前で転んだおばあちゃんに駆け寄って手を貸すことって、ただのエゴでしかなくて、結局「わたし」がいなければ、おばあちゃんは一人で立ち上がる。

結局じぶんががんばらなくても、世界は勝手に回っていく。

 

会社に入って、一年しか経っていないけど、こんなこと続けてて意味あんのかなって思う。上司はどこを見てるのかわからない目をして、いずれわかる、とか、点と点が繋がるときがくる、とか言ってくるけれど、わかりたいのは何十年後のことじゃなくて、今なんだよなあ。

 

下積みは辛い、とか、大事なのはじぶんの生き方を曲げないこと、とか、それっぽい言葉を並べてきて、説得してるつもりなのかもしれないけれど。

ぼくたちは過去を生きてるわけでも、未来を生きてるわけでもなく、今を生きているんだ。

だから、今しんどいから、どうにかしてほしいんだよ。

 

そう思っていた。

 

ぼくは昔から、物語が好きだった。散りばめられた伏線が、時に荒々しく、時に丁寧に回収されて、結末を迎える。冒頭のこの出会いは、こんな意味を持っていたのか、とか、中盤でのあいつの行動って、ここで生きてくるんだ、とか。

物語だから当然なのかもしれないけれど、意味のない描写なんてない。そこには必ず作者の意図があって、だからそれを先読みした気になって、展開に裏切られるのが、とても楽しかった。

 

それに比べて、じぶんの人生は、無駄だらけに思えた。

意味のないことばかりで、何やっているんだろうってむなしくなって、すべてがどうでもよくなる。

 

そう、思っていた。

 

新しく人と会うのって、気を遣うからちょっとだけ疲れるし、新しいことを始めるのも、心地よくはない。失敗したくないし、嫌われたくないし、だったら、行動することをやめてしまえば、よっぽど楽に思われた。

ぜんぶやめたいなあと思った。おばあちゃんに親切にして偽善者と思われるのも嫌だし、断られたら恥ずかしいし、よくわからない仕事して意味あるのかもわからなくて、ぜんぶぜんぶやめたいなあと思った。

やめてもよいのだと、思う。

つらいならぜんぶ、やめてしまってよい。甘えだとか、ゆとりだとか、言いたいやつは、何をしていても言ってくる。何をやめても言ってくる。

 

ただ、そういえば、ぼくは物語が好きだったなあ。

物語が好きじゃない人なんて、いないのではないかなあと思った。

そう思ったら、

これ、意味あるのかな

って思うことも、意味がある気がしてきた。

おばあちゃんに手を貸すことも、働くことも、行動してる。

行動してるから、そこには物語がある。

 

今まで行動してきたことがすべて物語になっていると、最近は感じる。

一言、二言しか会話しなかったような人たち。今後、仲良くなって、ゆっくり話すことはないだろうと思っていた人たち。

そんな人たちと、一言、二言会話したおかげで、今、一緒にいて、テーブルを囲んでご飯を食べているのが、とても不思議で、幸せだなあと思った。

 

ひざかっくんをされたことも、授業のプリントを預けたことも、ライブに行ったことも、かいけつゾロリのカードゲームをしたことも、取材飲みをしたことも、本屋にいったことも、ぜんぶ、みんな、伏線だったんだなあと思う。

 

だから、意味ないことなんてないのかもなあって思った。

人と関わることをやめないで、よかったなあと思う。

これからも伏線を張り続けて、もっともっと、大事な人のことを大事に思えたり、そんな人を増やしたりできたらなあと。

そう、思っている。