共犯者を一人見つければ勝ちという話

生き苦しい。

どうしようもなくしんどくて、誰にも言えなくて、すごくひとりぼっちだなあと感じる。

働いたり、遊んだり、生きたりしていくと、必ず孤独感を味わうことがあるように思う。

ささいなことだったり、とても重大なことだったり、大小さまざまなのだけれど、一瞬だけ、もう生きていることさえどうでもよくなってしまいそうになる。

 

なんで誰もわかってくれないのだろう?

そう思っていた。

 

「言わなきゃわかるわけないじゃん」

 

って、あおた(仮名)が言った。

なるほどなあと思った。

言ってもわからないことだらけなんだから、言わなきゃわからないことしかないよなあ。

察するのも大事だけれど、きいてしまうのも、一つの手なのだろう。

 

ささいなこと、で言えば、ぼくは大学の授業でのグループワークが、とても嫌だった。

4人とかで課題をやらなければいけない、となると、とたんに責任が分散して、みながちょっとずつ無関心になる。

誰かがやるだろう、と思って、誰もやらない。

 

だから結局、ほぼすべて、ぼくがやることになる。

 

そんなことが続いて、もう嫌になって、一回、流れのままに身を任せ、じぶんがあらがうのはやめようとしてみた。

そしたら誰もやらなくて、その授業の単位を落とした。

 

これもまた、間違った選択だったらしい。

 

いろいろ生きてきて、ささいなことにも重大なことにも試した結果、一つの結論にたどり着いた。

なにも、関わる人すべてを巻き込む必要はない。全員の意思を向かせたい方向に向かわせるなんてどだい無理な話だし、足を引っ張ってくる人はどこにでもいる。

だから、一人だけ、共犯者を見つければいい。

 

あなたじゃなきゃダメなんだ、と言ってしまうぐらいの勢いで、一人の人をぐっと引っ張って、巻き込む。

ここで大事なのは、味方を探すことではない。

あの人も味方じゃない、この人も味方じゃない、とさまよい続けるのではなく、巻き込んで、同じ立ち位置に否応なく立たせるのである。

 

共犯者と、ぼくは呼ぶ。

 

共犯者のことを理解する必要はないし、理解される必要もない。

ただ、信頼する。

言葉をぶつけて、頼みこんで、一緒にやって、任せる。

 

人に頼む。これもまた立派な仕事だ。

人に頼る。恥ずべきことはなにもない。

じぶんが頼られたとき、全力でむくいよう、助けよう、と考えているのであれば、問題はない。

頼むのも頼るのもタダだ。

気をつけないといけないことがあるとすれば、断られても必要以上にがっかりしないこと。

また、頼むのは、ささいなことで構わないということ。

 

関わっている、というじぶんゴト化をさせるのが大事なのであって、タスクを全部押しつけて、じぶんが楽をするわけではない。

誰かがやるだろう、ではなく、わたしがやらなければ、と少しでも思わせてしまえば、もうその人は立派な共犯者だ。

 

この結論にたどり着いてから、ぼくは授業のグループワークで、一番信頼できそうな人ひとりと連絡をとって、授業外で会うようにした。

そしたらなんだか気が楽になって、生き苦しさが消えた。

 

勝ったな、と思う。

なめられたら負け、という言葉がぼくは好きじゃない。

誰と戦ってるのかなあって思うし、なめたいやつにはなめさせておけばいいのに、と思ってしまう。これは日和すぎだろうか。

 

いつだって勝たなければいけないのは、昨日のじぶん。

だからぼくは勝ったな、と思って、ゆっくりと目を閉じる。