言葉に意味はないという話
結局ぼくらは、自身の気持ちをそのまま伝えることなんてできないんだ。
言葉って、とても好き。すごくすごく、大事なものだと思う。
けれど、やっぱりぼくは、言葉の飛び交うSNSというものがあまり好きではない。
文字だけ、という環境に、あまり意味を感じられない。
エモい、とか、ヤバい、とか、若者が頻繁に使うようになったこれらの言葉に、警鐘を鳴らす人たちがいる。たしかにわかる。
それこそ、エモいヤバいばかりを使っているのは「ヤバい」と言いたくなるのはわかるのだけれど、ぼくはむしろ、いい変化だと思っている。
エモい、という言葉そのものに意味はないのだ。
「言葉」という情報が最小限までそぎ落とされた代わりに、その言葉が使われているときの文脈、環境、表情、抑揚のつけ方などで、ぼくらはその時々の「エモい」を理解し、会話をスムーズにすすめる。
そこにあるのは、じぶんたちだけの言語、居心地のよい内輪ネタで、言葉をこねくりまわすよりもよっぽど、気持ちを伝えられているのだとぼくは思う。
結局それは、どんな言葉においても同じだ。
言い方によっては、褒め言葉も嫌味にきこえるし、悪口も愛しか伝わらないことだってある。
だからぼくは、文字だけだと長文になってしまう。伝えたいこと、本来なら表情一つとっても豊かな情報量を持っているのに、文字には表情なんてないから、ぼくは言葉を尽くして補完しようとする。
そしてたいてい、言葉を尽くしてもうまくはいかない。
だからやっぱり、直接会話することが、顔と顔を合わせて言葉を尽くすのが、とても贅沢で、豊かな伝え方なんだろうなあと思う。
言葉に意味はない。
きっとこの言葉も、文字だけだと、とても冷たいものになっていると思う。
本当はぼくは、慈愛に溢れた仏みたいな顔をして、後光を放ちながら、
「言葉に、意味はない」
とささやいていて、そこには優しさと「言葉」へのリスペクトしか詰まってないのだけれど、やはり、言葉だけでは、心をきちんと伝えるということで言えば、十分に意味を持たせることができない。
昨日もかとーちゃん(仮名)に、
「武内さんに悪口書かれた」
と悲しそうに言われた。
ぼくの中ではそんなつもりはまったくなくて、むしろかとーちゃんのわちゃわちゃ動いてくれるところとか、ほめると、にへらと笑ってくれるところも、とてもとても好きだ。
めっちゃ可愛いし、癒される。
けれど、自身の言動の気持ち悪すぎないところのバランスをとろうとした結果、言い方をきっと、間違えてしまった。
言葉に意味はない。
今は、まだ。
いつか、ぼくの文章で、言葉に意味を持たせられたらなあと思う。
言葉を尽くし続けたいと。
そう思う。