あおたと行った教会レポート

教会レポート

6月16日

日本ルーテル教団六本木ルーテル教会

牧師:藤木智広

イザヤ書6章1〜8節

ローマの信徒への手紙8章1〜13節

ヨハネによる福音書16章12〜15

説教題聞いたことを語る

感想・考察

駅から六本木ヒルズを通ってたどり着くこの教会は、思ったよりも遠くはなかった。中に入ると女性が二人受付におり、初めて来たことを伝えた。いくつかの質問が書かれた用紙に書き込み、代わりに週報をもらい、礼拝堂へ入る。それほど大きくはない礼拝堂に見えたが、きれいで、イメージしていた教会そのものだった。

その身体を持って、キリストは神の愛を教えてくれた。飾る必要のない、真実の自分であること、そのものを神は愛してくれるのである。十字架と復活を通して、神はそのひとり子を遣わしたほどに世を愛された。トマトをメロンに見せようとするから偽物になる。トマトはトマトなのだから、メロンになる必要はない。トマトであるあなたそのものをキリストは愛するのだ。

この説教をきいて、ありのままの自分を受け入れることの難しさ、だからこそ神に愛されているという自覚に目覚め、自分自身が肯定できるようになるのかもしれないと思った。私は最初、宗教は心の弱い人のものだと思っていた。自分自身では生きていけない弱い人が、何かの拠り所を求める為に宗教というものにすがり、神という幻を創り出した。けれど、今はそんなことはないと思う。キリスト教において、神という白髪のおじいちゃんがいるのではなく、神という自分たちの次元とは一つ上の概念があるのではないだろうか。自分たち人間では到底たどり着くことのできない概念を、神と呼んでいるのではないだろうか。それが無償の愛であったり、理不尽な出来事であったりする。これらは私たちには届かないものだ。人は誰からも愛されているという自覚なく誰かを愛することはできないし、納得できない理不尽はいくらでもある。そこに神という名前をつけたような気がする。神さまは世界を愛している。人のことも愛している。どんなあなたであろうと、真実のあなたを愛している。この神からの愛の自覚、どんな自分であろうとも愛してくれている何かがいるという思いが、私たちの他者への愛を育む。許されることを覚えたから、許すことができる。それはとても素敵なことだと思った。

礼拝も終盤にさしかかり、聖餐が行われた。歌を歌い、言葉を述べ、皆が前に集まった。洗礼を受けていない人は言葉をもらい、洗礼を受けた人はぶどう酒とパンをいただいていた。この儀式は興味深かった。毎週やっているわけではないらしい。とても貴重だ。血と肉をわけてもらうことによって、一体になる。

みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです

契約の血である。イエスと一つになるための儀式。だからこそ、洗礼を受けてない者はいただくことができないのだろう。

礼拝が終わると、3階で軽いランチがあるとのことで、受付の女性たちに勧められ、いただくことになった。礼拝に参加していたほぼすべての人、10人くらいが集まり、カレー、サラダ、食後のデザートの果物までいただいた。その後は勉強会があり、牧師と共に、ルターについて勉強した。この時は権威ある方が二人も偶然来ていたようで、牧師と含めて勉強会、そして互いの論の展開は白熱し、とても面白かった。キリスト教の中でも宗派の違いや、教会ごとの特徴、おすすめの教会として東京バプテスト教会が教えられ、行ってみたいと思った。

この教会の人たちは皆優しく、とても入りやすい場所だった。

あおたに

「どうだった?」

ってきいたら

「ワイン飲みたい」

って言ってきて

「それな」

って感じだった。