本音で話す話

たいらさん(仮名)に「武内さん、本音で話したことある?」ときかれて、ぼくはどきっとした。

じぶんの薄っぺらさを、見透かされた気がした。

嘘っぽいとか、テキトーとか、「スキ」も「楽しい」も真実に思えないとか、よく言われる。

きっと、言葉を尽くしすぎてしまうからなのだろう。

ぼくは思ったことを全部口にしてしまって、それなのに「嫌い」とかそういう強い言葉を使わないから、余計嘘っぽくきこえるのかもしれない。

 

本当は言葉ってとても大切で、たとえプラスでもマイナスのものでもむやみやたらに使ってはいけなくて、大事なときにとっておかなければいけない。

そして、行動にではなく、言葉にこそ、責任が伴うと思う。試験前に勉強してないアピールをする人は、そこをよく知っている。勉強めっちゃしてるよ!と言ってしまえば、いい点数をとらなければならないという責任が生じるのだ。

 

言葉の大切さをぼくは知った気でいる。けれど、その上で、ぼくは言葉を尽くしてしまう。

じぶんが尽くされたいから。

誰かに、洋服似合ってるね、かっこいいね、とか、優しいね、面白いね、とか、言われると、すごくうれしい。ありがとうと言われた日には、1日にやにやしてしまう。

だから、じぶんも言ってしまう。少しでも上向きの感情になったらいいなあと思いながら、思ってることを勇気を出して伝えている。

 

ぼくの本音は、どこにあるのだろう。

すべて本音のつもりでいる。心から、伝えた気でいる。けれど、多くの人に、きっとぼくの本音は上っ面に見えている。

 

サークルの後輩がぼくのことを「とにかく優しい人」と表現していて、なるほどなあと思った。ぼくを表す要素としてよくあげられるのが、とにかく優しい、うるさい、語る、お酒、とかだけれど、「本音で話されていない」と感じるのは、優しすぎるところのせいかもしれない。

 

優しい世界であってほしいと、いつも考えている。誰かが誰かのことを想って、ありがとうとか言って、笑顔でいられるような世界。そんな優しい人になりたいとぼくは強く思っている。だから、優しくあろうとする。

心の中で色々考えて、不満とかもあって、でも、その負の感情をぶつけようと思って文字に打ち込むと、途中で気づいてしまう。あ、この人も百パーセントの悪意で言った言葉だったり、やった行動だったりするわけではないんだなあ、と。そうしたら、ぼくの心にたまった負の感情はしぼんで、どうでもよくなる。

 

ぼくの優しさは偽物の優しさで、すごくハリボテに感じるのかもしれない。

ぼくは愛想の良い人が大好きだ。たとえ偽物だとしても、ハリボテをハリボテに見せないように努力をしてることに、価値があると思うから。

だから偽物の、本音に見えない優しさだったとしても、そこに意味はあると思う。

 

でも意味のあるなし関係なく、本音で話すと、ぼくが渡す言葉に嘘偽りはない。

嘘つきはみな、そういうけれど。