VRは恋とほぼ同じ

Oculus Quest という、去年のたしか今頃くらいに発売されたVRヘッドセットがあって、いまさらながら購入してみたのだけれど、正直予想をはるかに超えて、すばらしいものだった。

 

少しぼくの話をするのだとすると、ぼくは常日頃から

「うまいご飯を食べて、大切な人たちと笑いながら話して、ゆっくり風呂に入って寝る。これほどのぜいたくはこの世に他にないし、これさえできれば何もいらない」

と豪語している。

 

「小さい画面にとらわれて景色を見逃してしまうくらいなら、スマホは旅先では捨ててしまった方がいい」

とも言っているし、

「東京にはあまりにも新しいサービス、新しい商品が日々生まれすぎていて、人間が豊かに暮らすのに、本当にそんなものが必要なのかは甚だ疑問だ」

と口を酸っぱくして述べている。

 

ただ、ぼくの暮らしぶりはその主張の真逆をいくようなものばかりで、友人にはよく、

「お前だけは言ってはいけない

とたしなめられる。

 

たしかにぼくは旅行中、いつもスマホを肌身離さず持っているし、なんなら多くの時間スマホを注視している。

東京で暮らして、世の中にあるいろんなサービスを享受して、今日もぼくは便利に生きている。

 

きっと生まれるのが10年早ければ、ぼくの生き方や人との関わり方も大きく変わっていただろう。

 それくらい、ぼくは技術的な豊かさの中で暮らしている。

ただ、本質的にはこれらが必要不可欠であるわけではないという主張は、今も変わらない。

正直なくたって構わないのだけれど、あるのであれば使わない手はないし、使った上で批判をしたいとぼくは思っていた。

 

ただ、やはり新しいものが好きには違いないのである。

なんでこんなに新しいものが好きなのかと言われれば、新しいモノが今までにないコミュニケーションの形をつくるであろう予感に、興奮をおぼえるからだった。

 

オキュラスクエストというVRの機械は、いろいろと特徴がある、1年経った今でもかなり新しいものなのだけれど、その説明はグーグルさんにおまかせして、実際に使って感動した点を述べていきたいと思う。

一応簡単にだけ説明すると、オキュラスクエストはパソコンやスマホのいらない、完全に独立した機械であり、そのために邪魔なコードとかが必要ないため、VRヘッドセットをつけたまま踊り放題、飛び跳ね放題、走り回り放題という特徴がある。

そして従来のVRの多くは、頭を動かすと視界も同時に動くだけだったの対して、オキュラスクエストはしゃがんだり、歩き回ったりすると、VRの映像の中でもきちんとそう認識されるため、あたかもホンモノと錯覚してしまうぐらいのリアリティがあるのだ。

 

奥行きや高低差を認識できるから、もし寝ていてVRをつけたまま目を覚ましたら、起き上がってもきちんと視界として起き上がっている感があるから、VR空間の中にいることがわからない。

実際には画質の問題とか、頭にかぶるときの違和感とかでVRだとわからないわけはない。

なのだけれど、リアリティは存分にあって、このVRのすごさみたいなのは、ぼく自身体験してみないとわからなかった。

 

VRを実際に体験して、出てきた感情にぼくは戸惑いが隠せなくて、なんでなのかを考えた。

最初はあまりにも新鮮で興奮してきて、とにかくもっと知りたいと思っていろんなことをして、そのうちどっぷり浸かりすぎてしんどくなって、でもやめたくなくて続けてくうちに、VR世界内でものをとろうとして"本当は存在しない”ことに気づかず、転んでヘッドセットが頭から外れて、ぐっと現実世界に引き戻される。

 

何かと似てるなあ、というかほぼ同じだとか思いながら、ぼくは目を閉じた。