スマホは時をとまらせない話
オーストラリアの旅行中、ぼくはスマートフォンを持っていて、1日1回以上は仕事(と言ってもバイトとインターンだけれど)の連絡がきて、やれこうした方がいいとか、やれ誰々がこうしたとか、そんな話をきいていた。
旅行って、日常から切り離されるところに良さがある気がする。
しがらみも何もかも、ぜんぶ忘れたふりをして、未知を知ったり、感傷にひたったりして、心をリフレッシュさせるもの。
SNSって、知人の近況を知って、その人を思い出すことで、会いたいなあと思わせる装置であると同時に、なんだかネット上で会った気になって、ちょっと安心してしまうものな気がする。
旅行とSNS、この二つはぼくの頭の中で繋がりそうで、繋がりきらない。
日常が嫌いなわけでもないし、仕事の連絡(日々の業務の連絡だったり、誰かの仕事ぶりの話だったり)がくるのは面白くてとてもよいのだけれど、ぼくがいつもは避けているSNSの性質みたいなのを、少しだけだけど感じたように思う。
スマホがないと目的地にもたどり着けないし、写真とりまくってるし、現地で会う人と連絡とったり日本にいる人たちとラインしたりしていて、スマートフォンの恩恵しか受けてないぼくが言うのもおかしな話なのだけれど、本当はこんなもの、旅先では捨ててしまった方がいいのだと思う。
少なくとも、というかもしかしたらぼく一人かもしれないけれど、そう思う。
SNSは日々、常に更新し続けて、とどまることを知らない。
一緒くたになって、薄い膜がはってるみたいに、感覚が濁ってしまう気がする。
オーストラリアで買ったSIMのデータ通信が35GB(これはおよそぼくの日本での1年分のデータ通信量に相当する)もあって、インスタグラムを開く頻度が格段にあがった。
どうでもいい人のどうでもいい近況を見ながら、じぶんにとっての特別な人がわからなくなる。
今目の前にいる人。
そして、SNSによって思い出されなくても、道行く先で、つい思い出してしまうような人。
そんな人たちを、ぼくは大切にしきれていない。
大切にしていきたいなあ、とか、大切にしたいと思っていると言うと、やまは(仮名)の心に落ちない。
きっとそれは、ぼくがじぶんの心の表面だけをすくって、ポジティブという名前をつけて、ごまかしてしまっているから。
だから、もっと客観的に見たいと思う。
じぶんの考えなんて主観しか入らないけれど、少しでも客観に近づくように、考え続けたい。
ぼくの感情は、偽物に違いなかった。
きっと本当は、だれのことも好きではないのだと思う。
きっとぼくは、選ばなければいけない。
たくさんの人と繋がっておくのはとてもよいことだと思うけれど、
だれのことを考えて、だれを大切にしたいのか、
それを考えた方がいい。
じぶんの心にきいてみて、認識するべきだ。
SNSって、人と繋がって、近況を伝え合うという意味ではとてもすてきなものに違いないのだろうけれど、旅には必要ないのだと、ぼくは個人的に、勝手に、わがままに思う。
GO PROみたいなハンディカメラみたいなのを頭につけて、意識から外して、家に帰ってきたときに見返して、まとめてSNSにアップすればいいのだと思う。
欲を言えば、そんなものもつけないで、携帯電話も何もかも持たないで、その身一つで旅をしたい。
そんな旅の途中で、これはあの人に合うぞ、とか、この人に話したい、と思い起こしてしまうような人たちこそがきっと、ぼくにとって、特別で、とても大切な人たちなのだろう。
会いたくてたまらなくなって、話したくてたまらなくなって、それが旅の醍醐味なのだと、ぼくは気づくのかもしれない。