占いは言い訳という話

占いは言い訳だ。

 

占いって、本気で信じている人は、頭がおかしいのだと、ずっと思っていた。

宗教は心の弱い人がすがるもので、占いは頭の悪い人が騙されるもの。

 

そんな偏見を、ずっと持っていた。

大学がキリスト系で、否が応でも学ばなければいけなかったのも理由の一つだと思うけれど、いつしか宗教や占いを忌避する気持ちが、なくなっていった。

 

日本では宗教を宗教と一括りにして、嫌がる人が多くいるイメージがある。

信仰を軽視して、何も知ろうともせずに否定をしていて、もったいないなあとぼくは感じる。

 

宗教と占いを一緒に並べるのはまた違うという意見もある(逆に占いを宗教行為の一つとする意見もある)だろうけれど、数年前のぼくにとっては、よくわからないけれどちょっと嫌なもの、という認識のもとでは二つとも同じだった。

 

占いとは、運勢や未来を判断すること。

その判断を、心から信じている人もいるだろうけれど、本当のところは、信じているのではなく、願望に近いのだと、ぼくは思っている。

信じたい。信じさせてほしい。

きっと、じぶんのことを信じられないから。

信じられるものが何一つとしてなくて、せめて、何か一つ、寄りかかれるものがほしい。

それが偶然、占いだったのだと思う。

 

じぶんでは決められないこと。選択をしたことによる責任を、重圧を、少しでも減らしたい。だれか、だれでもいいから、背中を押してほしいと思うこと。

それが悪いことだとは、ぼくは思わない。

何かに頼ってしまえるのなら、それは弱さではなく、一つの勇気なのだと、そう思う。

 

ぼく個人の意見でしかないけれど、占いは言い訳だ。

何かを始めたいとき、でも自身では肯定しきれないとき。

占いの通りにして、うまくいかなかったら、

「なんだ、この占いあてにならないな」

と言ってしまえる。

 

ぜんぶぜんぶ、良いことも悪いことも占いのせいだ。

 

占いには、もう一つの側面があると思う。

それは人生相談。

話をきいてくれる人がほしい。

けれど、「私はこう思うよ」というアドバイスはいらない。

そうすると、占いって、アドバイスの押し付けでしかないようにも感じられるけれど、少し違うのだと思う。

「私の経験則から言わせてもらうと、このときはこうだね」

という言葉よりも、

「ほら、手相にこう書いてあるんだから、こうに決まってる」

と、いっそ清々しいほどの、ロジックの見えない断定をされるのもまた、気持ちよさがあるのかもしれない。

 

占いは言い訳だ。

じぶんに矢印を向けて、じぶんゴト化するのって、とてもすばらしいことだし、そうできるようにぼくはいつも心がけているけれど。

たまには、言い訳だって、必要なのだと思う。

占いって、能動性があらわれる気がする。

占いの結果で、一年間家にこもっていた方がいいでしょう、って出ることって、あまりないのではないだろうか。

これを持ってたら幸せになるとか、あそこに行けばパワーをもらえる、とか。そこには何かを始めるきっかけがあるように思う。

 

だから、じぶんの巡りあわせや、今の状況も、ぜんぶ星のせいにして、新しく行動するための言い訳にすればいいのだ。

 

一度でいいから、道端で、小さな机に紫の布をかけて座っている占い師に、占ってもらいたくてたまらない。

 

ただ、残念なことに、占ってもらうための言い訳が、まだ見つからずにいた。