自己の価値観を知るための6つの質問のその3

いよいよ最終回です。

意外と考え込むとめちゃめちゃ時間かかるし長くなるな。

 

5 これまでで最高(最悪)の上司は誰ですか? そう思うのは、その上司が何をしたからですか? 

 

最高の上司は、とにかくアチい人だった。

じぶんの倍くらい年が離れているのに決して子ども扱いをしてこないで、 こちらに任せるのが上手で、ほどよい緊張感のもと一緒に戦ってくれた。

好奇心が強くて、人のことが大好きで、正しいことを言う人。

 

よく二人で飲みに行ったなあ。

 

ただ、じぶんがその上司みたいになりたいかと言われれば、少し違うのかもしれない。

怒りの人だった。

誰よりもアチいからこそ、同じ熱量を持てない人とのギャップが生まれて、離れていく人も多い。

やっぱり上に立っている者なだけあって、愛とともに、厳しさがある。

その厳しさを否定したくて、ぼくは今もがんばって生きている。

 

人を動かすとき。

何かを成し遂げたいとき。

そんなときに、怒りを手段として使うのはバカげているのだとぼくはそう人々に思ってほしい。

この考えは何よりも、アチい上司のおかげ。

あなたは最高だけれど、ぼくはその最高を超えていきます。

 

6 自分の子供を育てたり、他人を指導するにあたり、一番伝えたいのはどんな行動で、一番伝えたくないのはどんな行動ですか?

 

伝えたい行動。

常に行動し続けることかなあ。

育てるとき、指導するときということであれば、必ず変化が必要なんだと思う。

変化ってのは、行動しないと生まれない。

 

そして行動っていうのは、走り続けることじゃあないとぼくは思っている。

 ずぅっと一定のペースを保って走っていたら、それは何でもない。

もちろん習慣をつくることって一番すごいことだと思うし、最高にすてきなことなのだけれど、そうじゃなくて、何も考えずにだらだらと続けていることが、"何でもない”ことなんだ。

 

だから、ずぅっと同じように走り続けている人がいるのだとすれば、そんな人が走るのをやめて、立ち止まってみるのも、行動していることなのだとぼくは思う。

 

迷って、考えて、行動する。

怖いのは立ち止まってしまうことじゃなくて、その行動に意味を失うこと。

 

ぼくが自分の子供や部下に教えたいことはそんな感じだろうか。

やめたきゃやめればいい。

そのあとまた考えて、何かやればいいんだから。

 

 

一番伝えたくない行動。

これしかない、と思って行動すること。

自分にはこの道しかない、夢を叶えるためにはこの手段しかない、という考え。

ストイックで、強くて、とてもすてきだとは思うけれど。

しんどいなあと思ってしまう。

うまくいったときはいいけれど、そうじゃないときだってあって、そんなときにストイックすぎると心が壊れてしまうのではないかと心配になってしまう。

 

将来は実家に戻らなければいけない。

卒業したらこの職業につかなければいけない。

結婚しなければいけない。

別れてはいけない。

仕事を辞めてはいけない。

とか。

 

事情もたくさんあるのだろうから、ぼくなんかが否定はできないけれど。

もう少し楽になってくれたらうれしいなあ、と心の中で思っている。

「これしかない」ことはたくさんあるのかもしれないけれど、どんな「これしかない」よりも優先順位の高いものがある。

 

答えはきっと、心の中にある。

 

自己の価値観を知るための6つの質問のその2

2 幼い頃や思春期における最も重要な出来事および経験は何ですか? それらが自分の世界観にどう影響を与えましたか? 

 

うーん、難しいなあ。

本読んでたことかなあ。

 たくさんの物語に、じぶんの想像力で触れていた。

青い鳥文庫の「夢水清志郎シリーズ」や「パスワード探偵団シリーズ」など、たくさんのシリーズを揃えていたし、一巻で完結するものも多く読んでいたように思う。

上橋菜穂子さんも大好きで、「獣の奏者」や「守り人シリーズ」など、読む手がとまらなかった。

小学生のころから野球をやっていて、英語を勉強していて、手品が大好きだったけれど、ぼくの世界観をつくっていったのは、何よりも文字であり、言葉であり、物語だった。

そんな中で、本が、物語がぼくに与えた影響ってなんだろう?

人は生き方を選べることを知ったことかな。

物語にはいろんな人が生きていて、いろんな世界があった。

生まれ持った義務のある者。

己の運命に抗う者。

ただ揺蕩う者。

ゆっくりとささやかに変わろうとする者。

 

彼ら彼女らの共通点は、終わらないこと。

物語なのだから、話は進み、時は動き、何かが起こる。

決まりきったエンディングは存在せず、じぶんの運命に文句をつけながら何もせずに終わる、だなんてことは起こらない。

そんな多くの物語に触れることで、ぼくは人生には選択肢があることを知った気がする。

強さも弱さも、存在していいのだと思えている気がする。

 

 

3 職場や私生活で、どんな人たちを一番尊敬していて、その人たちのどんなところを尊敬していますか?  

人の心をつかむのが上手な人。

丁寧な言葉を使う人。

周りを気遣っていることを悟らせずに心配りを添えられる人。

とにかく笑う人。

 

 

明るく、はきはきと、自信に満ちていて、安心感のあるしゃべり方をする人がいる。

そういう人を見ると、あぁ、すごいなあ、こんな風に人の気持ちを引っ張ってしまえるような人になりたいなあと思う。

 

言葉って意図せずして人をもやもやさせることが多々ある。

だからこそ、言葉を乱暴に乱用しようとしない人ってすてきだ。

 

気遣いはバレてしまった時点で相手を逆に気遣わせてしまい居心地を悪くさせてしまうことがある。

だからこそ、究極は気づかれないこと。気づかれない気遣いこそが、とても美しいし、それに気づいたじぶんが、その人のことをこっそりと敬うのもまた、なんとも美しい気がしている。

 

いつでも笑ってしまえる人って、すごいなあと思う。

笑いって最強じゃない?

 

4 一番尊敬していないのはどんな人で、なぜそんな風に思いますか?  

 

怒鳴る人。

下品な人。

人の悪口言う人。

 

怖い人やだ。

品のない人うってなる。

悪口言うやつは悪口言われるぞ。

 

5 これまでで最高(最悪)の上司は誰ですか? そう思うのは、その上司が何をしたからですか? 

 

6 自分の子供を育てたり、他人を指導するにあたり、一番伝えたいのはどんな行動で、一番伝えたくないのはどんな行動ですか?

 

 

あと2つ。

早起き眠い。

DaiGoと自己の価値観を知るための6つの質問のその1

メンタリストDaiGoって、絶対友だち少ないよなあ。

と思いながら、彼の動画をみる。

早口で、秩序のあるしゃべり方。

脳みそがぐるぐる洗濯機みたいに無理やり回されている感覚が気持ちよくて、ついつい聞き入ってしまう。

 

テレビに出ていたころ、彼のパフォーマンスに幼いぼくは否定的だった。

当時のぼくは手品が大好きでじぶんにも心得があったからこそ、そのタネ(だとぼくが決めつけていたもの)をメンタリズムだと言いはることに言いようのない憤りを覚えていたんだ。

今となってはDaiGoのことはかなり好きで、動画もよく見るのだけれど、その中で「自己の価値観を知るための6つの質問」というのが紹介されていたので、答えてみようと思う。

 

1 あなたはどんな価値観で育てられましたか? 自分のいまの思考体系は、それらの価値観を反映しているものですか、それとも育てられた価値観とは違う視点で世界を見ていますか?

 

嘘をつかない。

誠実でいる。

挑戦を恐れない。

やりたいことをやる。

明日やれることは明日やればいい。

お腹いっぱいなら無理して食べなくていい。

グロテスクなものはダメ。

品を忘れない。

家族みんな仲良く、一緒によく会話する。

よく眠る。

よく読み、よく観て、よく泣き、よく笑う。

なめられたらダメ。

挨拶を必ずする。

ありがとうを言う。

人の気持ちを想像して、心配りを忘れない。

 

これが我が家の価値観だったように思う。

おおむねぼくの視点は上記の価値観と相違ないけれど、

 

なめられたらダメ

 

こちらに関して言えば、ぼくは反対の立ち位置にいる。

いや、たしかになめられたらイラッとするけれど。

バカにされたりなめた態度をとられたら「なんだこいつ」ってなるのだろうけれど。

でもきっと、なめられてもよいのになあとぼくは思っている。はず。

敵じゃないし。

笑ってくるやつがいたら、一緒に笑えばいい。

雑魚めって思ってくる人がいたら、雑魚めって思い返せばいい……わけではないと思う。

何も思う必要はない。

だってじぶんが最強に決まってるじゃない?

だから雑魚めって思ってくる人って、逆に共感しかしない。

わかる。でもちょっと惜しい。

じぶんでじぶん自身を上だと思えないから、人を低く見積もって相対的にじぶんを上にしようとしているのかもしれない。

惜しいなあ。

じぶん以外が雑魚っていうよりかは、じぶんが最強。

それだけでよくないか。

 

誠実でいる。

これは大事なのは頭ではわかっているつもりだけれど、おそらく守れていない。

その場の自身の快楽に負け、ひとりよがりな面白さを基準にして行動してしまうことが多々あって、でもそれも中途半端なものだからみっともなさしかない。

日々日々、周りの人によって気付かされることが多くて、小さく小さく、一歩ずつ誠実さに近づいているつもりではいるのだけれど。

まあ昨日のじぶんよりかは、今日のじぶんは少し成長してる気がする。

もっともっと、想像力がついて、人の気持ちを知ることができている。

気がしている。 

 

 

2 幼い頃や思春期における最も重要な出来事および経験は何ですか? それらが自分の世界観にどう影響を与えましたか? 

 

 

3 職場や私生活で、どんな人たちを一番尊敬していて、その人たちのどんなところを尊敬していますか?  

 

4 一番尊敬していないのはどんな人で、なぜそんな風に思いますか?  

 

5 これまでで最高(最悪)の上司は誰ですか? そう思うのは、その上司が何をしたからですか? 

 

6 自分の子供を育てたり、他人を指導するにあたり、一番伝えたいのはどんな行動で、一番伝えたくないのはどんな行動ですか?

 

 

まだまだ質問はたくさんあるけれど、ゆっくり答えていこうかなあと思います。

一日一答。

続くかな。

人生で初めてコンタクトを入れてみる

メガネもかけず、ずっと裸眼だったぼくはコンタクトとは無縁の生活を送っていた。

 

これからもコンタクトなんぞ使うつもりはなかったし、目にあんな異物を入れるのなんて信じられないと思い続けていた。

そう、昨日までは…。

 

仕事の関係でカラーコンタクトを使っている人たちがいて、

「つけてみなよ」

と言われたぼくは、二つ返事で

「いいっすね。いいっすね」

と言った。

 

好きな人にすすめられたらノーと言わないことを人生の美学にしているぼくは、面白おかしい、ふざけるのが上手なひげ面の先輩にそう言われて、断るわけがなかった。

 

ギャル要素の強めの、ピカピカのカラーコンタクト。

ワンデーの度なしのそれは、想像していたものと違ってふにゃふにゃで、入れても痛くなさそうだ。

つけ方を教えてもらって、鏡を見ながら挑戦したぼくだったけれど、全然入らなかった。

怖いとか、目に触れるのが痛いとかそういうのではなくて、ただひたすらに、どうあがいてもつけられなかった。

 

いろんな人のアドバイスをききながら頑張っていたけれどできず、ついに

「私が入れましょうか?」

と親切な人が現れて、入れてもらうことに。

 

目に指をつっこまれる。

なかなかにシュールなその光景を、固唾を飲んで見守る人々。

仕事中に何やってるのだろうかと思いながら、悪戦苦闘が続いた。

「あー惜しい」

「まつげ長いから難しい笑笑」

「もっとひらいて!」

「上向いて、上!」

「あー、惜しい」

 

結果、入りませんでした…。

 

その後、ぼくは別のオフィスに行って、1人でもう一度挑戦してみた。

やっぱり無理だ…。

もう一生、カラーコンタクトはおろか、コンタクトさえ入れることはできないんだ、と絶望しかけたその時。

「私できますよ」

と現れた子に、再度指をつっこまれる。

 

目に指をつっこまれるの、部分麻酔で手術をうけて、目だけ動かせる、みたいなときの気持ちってこんな感じなのかなあとか思いながら、なすがまま目を預けていた。

このまま「おりゃ!」って指ぐってやられたらもう二度とみんなの顔見られないんだよなあって思いながら、でも不思議と怖い気持ちは一切なかった。

 

怖くないの?ってきかれたけれど、不自然なくらい自然に指をつっこまれている。

ていうかやられている方はぼけっとしていればいいだけだからいいのだけれど、むしろ指つっこんでる方は怖くないのかな。

ぼくならそっちの方がよっぽど怖い。

急に自分の中の悪魔みたいなのが、ぐって押しちゃおうって思ったらどうしようって怖くなる。

 

だからぼくは無防備の人が怖い。

子どもとか、赤ちゃんを見ると不安になる。

 

そんな感じの、カラコンデビューでした。

丁寧な暮らしはうさんくらいらしいけどぼくはそう思わない話

 

丁寧な暮らし とグーグル検索すると、予測のところに

「丁寧な暮らし うさんくさい」

「丁寧な暮らし うざい」

「丁寧な暮らし 疲れた」

とかが出てきて、ぼくは悪いことをしているところを見られた子どもみたいにどきりとした。

 

丁寧な暮らしって、すてきなものだと思っていた。

それは自分の中で、一つ一つの行為に意味を持たせることだと思っていたから。

 

起きること。

丁寧に起きる。

あさ5時でも、7時でも、12時だっていい。

その時間に起きるということに、自分の中で意味づけをして、価値を与える。

あぁ、丁寧だなと思う。

 

自分にとって大事なことを大事にする。

大切にしたいことを、曲げないだけの理由を持つ。

頑固だっていいし、人には理解されないかもしれないし、ともすればめんどくさいと思われて離れてしまう友だちもいるかもしれないけれど、そこにしゃべり切ることのできるほどの理由がある。

 

儀式めいた習慣づけを、ていねいと呼ぶのだと、そう思っていた。

 

ぼくにそんな丁寧な暮らしができるのかと言われれば、はなはだ疑問だった。

怠惰だから。

部屋の整理もできないし。

心の整理もできたことはない。

 

唯一ていねいだったなと自分に対して思えるのは、このブログを書き続けていた時だけで、今となってはそのていねいさも消えてしまっていた。

 

ぼくは早起きがしたいと、小学生の頃からずっと思い続けている。

睡眠は罪だと、ずぅっと感じていた。

お昼過ぎまで寝てしまった後に覚える罪悪感に押しつぶされそうになりながら、ぼうっとした頭で「今日も何もできなかった」

と思ってしまっていた。

いつからか、睡眠に対する罪悪感は消えて、たくさん眠ってしまった時も、仕方ない、疲れてたんだから。いつも頑張ってるもんな、とか勝手に意味を与えて、自分の中で惰眠に価値を与えるようになった。

息苦しさが和らぐ。

 

結果は変えられないのだから。

一番健全なのは、丁寧に行動することではなくて、丁寧に想うこと。

 

そう思うようになったのだけれど、相変わらず早起きはしたいと思い続けている。

けれどできない。

だから早く起きられる人ってすごいなあと思う。

でも何でぼくが早起きできないかなんて、わかりきっているんだ。

 

意味をまだ見つけられてない。

価値をまだ知らない。

ただ漠然と、ずっと寝てるのはもったいないし、朝起きたら時間いっぱいあって良さそう。って思ってるだけ。

 

結局ぼくが怒ってしまうのも、泣いてしまうのも、悲しくなってしまうのも、おんなじで、怒らずに泣かずに悲しくならない意味を見つけられずにいるから。

きっとぼくにはまだ、丁寧さが足りない。

 

ぼくが人へ投げかける「好き」の言葉も、「かわいい」の言葉も、「ありがとう」の言葉だって、まだまだ意味は薄くて、価値なんてちょっぴりすらないのかもしれない。

だからやっぱり、丁寧な暮らしがしたいなあと思う。

その丁寧さは自分の心の中にある、一つ一つの積み重ねで、意味であり、価値。

晴れた日の凪いだ海の、広くて深くて、落ち着いていて、優しくて、ゆっくりで、穏やかに光る、そんな薄い青色みたいな丁寧さ。

 

毎日をもっともっと。

丁寧にできるかな。

丁寧にしたいなあ。

 

アキバの面白い異様さ

仕事の都合で平日の夕方、秋葉原に非接触型の体温計を買いに行った。

新御茶ノ水駅からお店に行き、その後秋葉原駅まで歩いたのだけれど、小雨の中、道にはたくさんのメイドさんがいらっしゃった。

 

大通りを一本入った広すぎない道に見渡す先ずっと、2メートル間隔くらいで多種多様な服を着たメイドさんたち(サムライもバニーもよくわからないのもいた)が立っていて、手を振って呼び込みをしている。

 

一瞬ここがどこかわからなくなる。

遠い異国の地にしてもファンタジーな世界に飛び込んだにしても、てんでばらばらな服を着たメイドさんたちの立っているその光景は異様だった。

 

どんな感情かもわからず、ぼくはふるえる。

 

 

高校生の頃はよくアキバに行っていた気がする。

友だちとアニメイトまんだらけに行って買い物をしては、サイゼリヤで遅くまでダラダラと過ごしていた。

 

この日、あらためてアキバに赴いて、この光景の異様さにふと狐にばかされているような気分になる。

今のご時世で、室内での密を避けるために、こんなに外にメイドさんがいるのだろうか。

 

ぼくが秋葉原に行っていた頃には、こんな光景を見たことはなかった。

高校生の頃のぼくらは、可愛いイラストの女の子の描かれたタペストリーやまんがタイムきららのコミックスやライトノベルを買って喜んでいるようなライトなオタクで、メイド喫茶を楽しむほどの勇気も覚悟も持ち合わせてはいなかった。

 

ゲーセンにもよく行って、店員さんに頼んで落としやすくしてもらいながら、アニメキャラのフィギュアをとっていたなあ。

ぼくらが当時見ていた表通りにいるメイドさんは、氷山の一角でしかなかったのかもしれない。

一本裏に入った通りにいる多くのメイドさん

 

今、何年も前の自分を思い出しながら、道端に立ち尽くすメイドさんを見ながら、田舎町に行った気分になる。

 

田舎町には住んでいたこともなかったし、おばあちゃんが暮らしているわけでもなかった。

でも、田んぼや日本家屋、寂しげなバス停にエモさを感じる。

そんな時と似た感情が、小雨のふるアキバでぼくを襲った。

 

そこには、寂しさがあった。

知っているようで知らない、複雑で、寂しくて、本当は知りたくて、でもきっと、近づくことのできない。

 

そんなアキバの異様さを噛みしめながら、ぼくは意を決して、道端に立つ左目に黒の眼帯をつけたゴスロリメイドさんに声をかける。

かけなければならなかった。

かける以外の術はぼくにはなかったのだ。

「すいません」

ゴクリと唾を飲み込んで、ぼくは恥ずかしい気持ちを必死に押し殺して、こう言った。

「アキバの駅って、どっちですか?」

眼帯ゴスロリさんは一瞬きょとんとした顔でぼくを見た。たぶん。マスクをしていたから、どんな表情だったかは定かではないし、緊張してたからあまりゴスロリさんの方を見ないでいた。あまり見つめて変なやつだと思われても嫌だし…。

やばい、客じゃないからあしらわれるかな、と思ったら、

「えーっと、あっちの道をまっすぐ進んで、左に曲がって大通りでたら、みぎあるいて、しばらくまっすぐ言って左行くと駅です!!」

と快く伝えてくれた。めっちゃ丁寧なその案内に心の中で密かに感動しながら、眼帯さんに深々とお辞儀をして、ぼくは歩き出した。

なんとかっこいい眼帯さんだろうか、と思いながら、ぼくはもう振り返らないぞ、と思って意気揚々と歩き出す。

「お、お兄さん!」

え、と思って、まさかぼくじゃないよな、でも確かに眼帯さんの声だ、と思ってドキドキして、ぼくはすぐに振り返った。

「何ですか?」

何を期待していたのかは、ぼくにもわからない。

お姉さんはマスク越しで表情は見えなかったけれど、まっすぐな目をこちらに向けてきた。

「あっちの道です(苦笑)」

指差す先は、ぼくが歩き出した方とは逆方向。

「…………。あ、すみません(小声)」

ペコペコ頭を下げながら、ぼくは駅と思われる方向へと歩いた。

 

アキバは不思議なところだ。

一言では語れないほどの深さがある街。

ぼくはいつかまた、この街にくるのだろう。

と感慨深げな気持ちになりながら灰色の重たげな雲のかかる空を見上げる。

アキバのその異様さを噛みしめながら、ぼくは傘もささずにゆっくりと歩いていた。

PCR検査を受けた話

 

微熱がずっと続いていた。

 

地元の小さな駅で、2人以外入るのことのできない秘密めいたレストランで朝までお酒を飲んだ後、お昼頃に起きたぼくは二日酔いなことに気づく。

 

熱を測ると、37.5度。

 

昨日は36.8度だったな、と思ってから、少しだけ、寒気がした。

思った以上の熱の高さにびっくりしたのか、二日酔いがひどいのか、ぼくには見当がつかない。

 

2人だから大丈夫。

他に人がいないから大丈夫。

そう思って外出してお酒を飲んだのが間違いだったのかもしれない。

 

そこから4日間、朝は平熱だったのだけれど、夕方前になると37.5度まで熱が上がった。

4日目も、朝平熱であることを確認して出社した。

そうしたらお昼ごろに電話が来て、どうやらちょうど二週間前に仕事で接触した人が、陽性で入院していたらしいことがわかる。

 

接触したと言っても、同じ空間にいただけで、いわゆる濃厚接触には当てはまらないらしかったのだけれど、そのときぼくは心臓がバクバクした。

 

どうしよう、と思って、すぐに上司に報告して家に帰ることになった。

その後、オンライン診療なるものがあって、自宅でもお医者さんに診療してもらえることを知って、実際に受けることに。

極論、沖縄に住んでいても北海道のお医者さんに診療してもらえるのがオンライン診療なのだけれど、ぼくは近くのお医者さんでオンライン診療を受けられるところを探した。

オンラインではレントゲンを撮ることや、細かな処置ができず、もし診察の結果より詳しい検査が必要だとなったときに遠くのお医者さんだと対応できないからだ。処方箋はファックスなどで近くの薬局に送ってくれるらしいのだけれど。

 

診察はすごく丁寧でわかりやすく、的確で、次の日には実際にお医者さんのところへ行ってレントゲンを撮って、PCR検査を受けることとなった。

ここらへんは時期とか市区町村、紹介をしてくれる病院によっても対応が色々違うのだろうけれど、ぼくの場合はとてもスピーディーに、PCR検査を受ける運びとなった。

もちろんその日すぐに、とはいかなかったけれど。

 

注意書きの紙を看護師さまに渡される。

絶対にしてはいけないことや、迷った時は何色の服の人に声をかければいいのかなどが記載されたその紙は、検査を受ける際に必要な大事な紙だった。

ぼくはそれを握りしめながら、母親のバイクの後ろに乗って、検査会場までいくこととなる。

公共の交通機関は使ってはいけなかった。

タクシーも色々な制限があるらしい。

 

会場についても、それらしさはなかった。

地図を見ながらぼくは歩いて、

「検査を受けに来ました」

と伝えると、サッと周りの人たちが距離をとる。

アルコール消毒を自身で手につけて、歩く。

室内。受付には、透明な壁が貼られたテーブル越しに、2人の男性が立って、

「身分証と紙を見せてください」

と言った。

 

ぼくは言われるがまま、4メートルほど離れた位置から紙と免許証を見せる。

きっと何も見えないだろうな、あれ、もしかして双眼鏡で見てくるのかな、と考えていたら、

「遠いです」

と言われて、難しいなあと思った。

 

紙を手渡すと、言われる。

「床に書いてある1番の番号のところに立ってください」

言葉通り、5歩ほど左に歩いて、1番と書かれた床の上で立って待つ。

 

5秒もしないで、

「それでは、お進みください」

とマイクで音を拡大させて言われる。

 

床に描かれた線に沿って15歩ほど歩くと、パイプ椅子が5脚並んでいた。

防護服に身を包んだ男女の2人とぼく以外、誰もいない。

天井の高いその空間では、オレンジ色のおっきな扇風機がブンブンと回っていたけれど、ねっとりとした静けさがあった。

濃い、緊張感みたいなのを感じた。

 

防護服を着た40代くらいの男性に、

「それでは座ってください」

と言われる。

その後、

「間違いのないように確認させていただきます、    さんでよろしいでしょうか?」

と高らかに言われて、

「はい、間違い無いです」

と言った。

男性はずん、とぼくに近づくと、

「マスクから鼻だけを出してください」

と言う。

 

鼻に15cmくらいの長い棒を突っ込まれて、くしゃみとも咳ともつかない、鼻ムズムズがぼくを襲う。

プールで水が鼻に入った時みたいな不快感。

 

その棒が抜かれると、男性はぼくから離れて、試験管のようなところに棒を入れる。

彼がゴム手袋を外すと、もう一つゴム手袋をしていた。

何重にもなっていて、その一つでしかないのだろう。

アルコールとみられる液体で手を消毒すると、彼は

「それでは終わりです。案内に従ってお帰りください」

と言って、

ぼくは

「ありがとうございました」

と頭を下げた。

 

ありがとうございました。

関わるすべての人に、ありがとうございました。

 

広い検査場には、検査を受けるのはぼく1人。

 

何で誰もいないのだろう、と思いながら帰路についた。

 

2日後、見知らぬ携帯番号から電話がかかってきて、

「     さんの携帯電話でよろしいですか? 検査結果をお伝えします、陰性です」

「はい、え、陰性? いんせい? 本当に? もっかい言ってもらっていいですか?」

「陰性です」

「あ、なるほど、ありがとうございます。ありがとうございました。お電話ありがとうございます」

 

よかった。

多くの人にご心配と、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。

 

でも陰性なら、この熱は何??

と思いながら、ゆっくりと寝ました。